過去の思い出と

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過去の思い出と

三年になり、進路が本格的に進んでいた頃、母は昔から東京に行きなさいとうるさかった。案の定、兄三人は全員東京に行っている。慣れずじまいで帰ってきてはいるが、四つ年上の兄は東京があっているらしい。帰りたいなどと愚痴を零す姿を見たことがない。本当に楽しんでいるとSNS上でもよく分かる。私も強制的に東京行きが決まった。勿論、就職組だ。大学の費用はあるにはあるが、いつ何ときのため、兄妹全員が就職と決まっている。それは母が片親で四人もの子供を育ててくれた御礼にと就職する、皆が思っていることだった。就職先も見つけ、一安心と思っていたが、友達からの親離れしたらという小言が耳障りだった。現に末っ子の私は全く母から離れようとしない。友達からにはよくマザコンと呼ばれるが一度捨てられたと思っているからだ。  離婚する前のこと。母は私とよくドライブをしていた。いつも助手席に私と二人の幸せな時間。専業主婦の母でもあり、年齢も40代に差し掛かり、不安もあったのだろう。ふと父の方が稼ぎもある。私は偶に顔を見せる、一人で暮らすと口にしたのだ。とても頼りなさそうに笑う母を見て、幼柄に励まそうとした私。追い込まれてみるみる痩せていく母の姿。そのとき、母は出ていくと言ったのだ。玄関で母のうしろ姿を見ることしかなかった私は母が見えなくなるまでそこにいた。母がいない、あの幸せはどこに行ったのだろう。即座に二階の寝室に移動し、あの幸せを探すかのように母の匂いがある枕に包まれ泣いたのだ。父もその場にいたが、出張ばかりで禄に子育てもしていないので泣きやまない私にオロオロしていた。そして、一声。ラーメン食べに行くかと何とも無神経なものだった。父が休暇な時は必ずラーメンを食べていたが今ここで話す場面でもない。母のぬくもりを必死で探していた私は父の言葉を無視してずっとずっと泣いたのだ。その間、母のただいまが聞こえたのだ。何故と吃驚した私は考えるのを辞め、ただただ、母を抱きしめたのだ。母に何処に行っていたのかと問い詰めると役所で離婚手続きをしていたとあっけらかんに言うものだから捨てられたかと思った、今度は私もと連れてってと言いたかったが、出たのは何ともお粗末な馬鹿、お母さん、大好き、阿呆の単語ばかりだった。あんな前振りもあり自分の中では捨てられた気になっていた私は、こんな思いをするなら死んだ方がマシだと酷く心に根付いている。マザコンと呼ばれる私だが皆は経験がないので簡単な言葉で済ます。全く心に響かないものばかりで鬱陶しいと日々感じていた。これもあと少しで終わるとなると慈悲深く思う。皆は東京に一人で上京すると思っているが母も一緒に行くのだ。末っ子の私でようやく最後の育児を終えやりたいことをしたいと告げた母は東京に行くと言った。そもそも母が一緒にとならなければ絶対に行かなかっただろう。地元に残って生活していた。 末っ子はお下がりばかりなものを貰い、新品なものはあまり買ってはくれないが私にとってはある意味得な位置関係だと思い知る。
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