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違う、逃げたわけじゃない。
あの男が気に入らないから、不愉快だから、同じ室内に居たくなかっただけ。
知恵の樹木が彫刻された玄関の扉を押し開けると、さあっと冷たい夜の空気が全身を包む。
すでに午後九時近いけれど、あたりはまだほのかな明るさを保っている。灯りがなくても、庭をそぞろ歩くのに不自由はない。
生い茂る樹々をさやさやと夜風が揺らす。ひんやりした空気の中に、甘く花の香りが溶け込んでいる。帝室図書館内での熱気が嘘のようだ。
わたしの体の中にこもっていた熱も、冷たい夜気の中に放散されていくみたい。
わたしはほうっとひとつ、大きく息をついた。
そういえば、こんなふうにひとりきりになるのはずいぶん久しぶり。
公女としてのわたしは、基本的に一人で行動することはない。許されない、といったほうがいいかもしれない。どんな時でもお付きの者、それも複数の人間たちに取り囲まれている。
それは、帝国の重要人物であるわたしを護衛するという意味もあり、そしてまた、帝国を象徴するわたしが不用意な言動をしないよう、監視していることでもあるのだ。
公女アレクシオーラは生まれた時からずっと誰かに見つめられる生活を続けている。もはやそれを疑問に感じることすらない。
でもわたしは――二十一世紀の日本での生活を知っているわたしにとっては、やっぱり、窮屈で我慢できなくなる時もある。
わたしは……わたしは、いったいどちらなんだろう。
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