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小夜子にお茶を運ばせる本当の理由は、華子自身がきまり悪くて客と顔を合わせられないからだろう。
「ま、しょうがないわね」
ふうっとひとつ、息を吐くと、小夜子はようやく沸いたお湯でお茶を淹れた。
お茶菓子なんて洒落たものは用意できないので、せめてものおもてなしに、自分で漬けたきゅうりと茄子の浅漬けを添える。
襷と前掛けを外し、色あせた絣の着物を形ばかり整えて、小夜子は三人分のお茶をお盆にのせた。
華子奥さまに言われるまでもない。お茶をお出ししたら、さっさと台所へ戻ろう。
お客さまだって、こんな「女中」にいちいち話しかけたりはしないだろう。
恩田男爵邸の居間は、玄関から入ってすぐのところにある、日当たりの良い洋間だ。
作法どおり小さくドアをノックしてから、小夜子は居間へ入った。
「失礼いたします。――あら?」
布張りの長椅子に座っていたのは、若い男性ひとりきりだった。
「酒井子爵ご夫妻は、百合子嬢の説得に行かれたよ」
静かに、男性が言った。
聞く者の耳元をふっとくすぐるような、なんとも心地よい声だ。
「さようでございますか」
ならば、この若い男性が縁談の当事者、第二代黒川伯爵なのだろう。
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