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使用人の分際で、高貴な身分の来客と目を合わせるわけにはいかない。伯爵の前にお茶を置くあいだ、小夜子は礼儀作法どおり、おとなしく口を閉じ、顔もあげなかった。
それでも伏せた視線の先で、つい、伯爵の姿を眺めてしまう。
――悪鬼のような、なんていうから、どんな強面かと思っていたけど……。
アールヌーヴォー調の瀟洒な居間に、黒川伯爵は一縷の隙もなく、見事に溶け込んでいた。
前髪をすっきりとあげ、秀でた額を見せる髪型は、理知的で、しかも洒落ている。とおった鼻筋、男にしてはやや薄い唇。ともすれば冷淡になりそうな印象を、落ち着いた表情がやわらげている。仕立ての良い洋装をごく自然に着こなす様子は、普段からこういう身なりが彼の日常なのだということをうかがわせた。
銀座や浅草の繁華街を闊歩する低俗なモボなどとは格が違う。長い脚を形よく組んで緞子張りの椅子に座る姿は、それだけで一枚の絵画のようだった。
だが伯爵は、小夜子が出したお茶には手も付けず、長椅子からすっと立ち上がった。
「酒井子爵にはもうしわけないが、僕はこれで失礼させていただく」
「えっ?」
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