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日丘高校、体育教師の安達は、人気のないガランとした武道場に入った。始業式の後は剣道部も柔道部も軽く済ませて終わっている。まだ外では熱心な野球部やサッカー部が練習しているが、武道場はしんと静まっている。
「何だ、まだ相手は来てないのか」
安達は畳の上に座り、壁にもたれてぼけっとしている生徒を見た。
制服姿だが、足は裸足だ。手には木刀が握られていて、それを片手でシュンと風を切りながら振っている。安達はこの生徒のためにここへ来た。約束だからだ。四月にこの生徒が問題を起こして以来、彼にけんかを売ろうなどという無謀な奴はいなかったが、半年たって記憶が薄れたのか、とうとう現れた。
安達としてはその無謀なけんか相手に怪我をさせないよう、見届ける必要があった。
「まだ時間じゃないから」チラリと壁の時計を見た瑞輝は答えた。五時十分前。
安達はうなずいて瑞輝の横に腰掛けた。
「女の子の取り合いだって?」安達はニヤリと笑う。
「取り合いじゃない。迷惑がってるからやめろって約束を取り付けるだけ」
「ふうん」安達はうなずいた。あまり突っ込まないでおく。「手加減しろよ」
瑞輝はつまらなさそうにうなずいた。この勝負自体が意味がないと言っているように見えて安達は苦笑いした。
「山内はおまえのおかげで真面目になった。良かったよ、山内さんのご両親に感謝されちまった。いい友達ができたみたいですよって言っておいた」
安達が言ったが、瑞輝は答えなかった。面倒臭そうに木刀を振っている。
「おまえも学校を辞めるんじゃないかと思ってた。今日、ちゃんと来たからホッとした」
そう言われて瑞輝は手を止め、安達を見た。
「辞めそうに見えましたか?」
安達はうなずく。「見るからにフラフラしてた。何を考えてるかわからなかった。今も大してわからんけどな。でもマシになったよ。しっかりしてきた」
瑞輝は目を前に戻した。
「俺が習ってきたのは、人を殺す技術だって藤崎先生も言ってた。それはすごく当たってると思ったんだ。今は必要ないものだっていうのもわかってた。でも俺には必要だったから、どうしたらいいのかわからなかった。俺は人としてダメなのかなと思ってた」
安達は瑞輝の横顔を見た。少し焦る。「何もおまえを否定したわけじゃない。それで落ち込んでたのか?」
瑞輝は小さく首を振って笑った。「今はもう、わかったからダメだとか思ってない」
「良かった。おまえ自身を否定したんじゃないからな。スポーツとおまえの習っていることは違うって言っただけで。知っている奴が少ないっていうだけで、必要ないとも言ってない」
安達は一生懸命に言った。何か誤解を与えたなら謝らなければいけない。
「先生、大丈夫だって。わかってるから」
瑞輝は静かに笑った。
「山内先輩には、俺も救われた。お互い様だ」
瑞輝が言って、安達もうなずいた。そうだな、おまえたちは意外と合ってる。
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