■ 処 暑 ■

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「ちょ、ちょっと待て」  彼は瑞輝に両手を向けて言った。腰が完全に後ろに引けている。  瑞輝はじっと相手を見た。自分より背も高いし体重もありそうだ。何をそんなに怖がることがあるのかわからない。 「待てません。俺もいろいろ忙しいんで」 「じゃ、始めるか?」安達が嬉しそうに言った。 「嫌だ!」四角い顔の生徒は怒鳴った。後ろにどんどん下がろうとして、章吾に止められて青ざめる。「なんで勝負なんか。そいつ、本気でやったらめちゃくちゃ強いって聞いた」  本気でやらねぇよ。瑞輝は息をついた。 「めっちゃくちゃ強ぇぞ。殺されっぞ、おまえ」章吾が相手を羽交い締めにし、必要以上に怯えさせている。 「離してくれ! 先生! 止めてくれ!」彼はパニックに陥ってわめき続ける。ギャーギャーうるさい。  瑞輝はずかずか近づいて行って、真っ青な顔の相手の前に立った。章吾がナイスタイミングで羽交い締めを解き、四角い顔の生徒は無我夢中で腕を振り回した。  瑞輝はその両手首を掴むと、相手の顔の前にグイと押し込み、足を軽く引っ掛けて、相手を後ろにエビぞりにさせてから床に倒した。ちゃんと床に落ちる前には、頭を打たないように気を配ってやった。そのまま横に膝をつき、片手を相手の首筋に這わせ、軽く指を立てた。 「うげぇっ」短く相手がうめいて、瑞輝は指の力を抜いた。場所はそのままだ。そして空いている右手で自分の唇の前に人差し指を立てた。相手は血走った目でそれを見て、何か言いかけた口をパクパクさせた。 「大丈夫か?」安達が覗き込んだ。章吾も一緒に覗く。 「信用ねぇな」瑞輝は顔を歪めた。そして相手を見下ろす。「相手が誰でも、嫌がってることはしないほうがいい。こんなことは小学校で習ったと思うんだけど」  口をパクパクさせていた相手は、何度も小さくうなずいた。  瑞輝はそれから少し考えた。何か付け足しておいたほうがいい気がする。 「自分がやられて嫌なことは、人にしない方がいい。いつか返ってくるから」  彼はさっきよりも大きめにうなずく。涙目になっている。  瑞輝は彼の首から手を離した。彼はホッとして脱力する。ひゃひゃひゃと章吾が笑い出す。 「ユアに何かしたら、今度は手加減できないかもしれない」  瑞輝は立ち上がって、相手を見下ろした。相手は首をブルブルと振った。 「もう声も掛けない。誓う。目も合わせない。本当だ。名前も忘れる。だから許してくれ」 「別にそこまで言ってない」  瑞輝は不服そうに言って、立っている安達を見た。  安達は笑いながらポンポンと瑞輝の肩を叩いた。 「わかったら帰れ」と章吾が四角い顔の生徒を追い出し、わはははと大いばりで武道場の出入り口に仁王立ちしていた。  瑞輝はぺこりと安達に礼をして、章吾の脇を通り過ぎた。帰ろう。腹が減った。  章吾が「待てよぉ」と追いかけて来るのが聞こえた。
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