■ 長 月 ■

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 泰造が離れて行き、それを確認してからユアがやってきた。  瑞輝は平手打ちをされるんじゃないかと思った。歯を食いしばり、そうなってもいいように待つ。どういうつもり?と激怒するに違いない。  『きらきら星』はユアが子どもの頃、初めての発表会の時に選んだ曲で、彼女はそれを弾けなかった。緊張しすぎて鍵盤を一度も押すことなく退場したという暗い記憶がある曲だ。  それ以来、ユアはこの曲を毛嫌いしている。それまで大好きだったはずなのに。瑞輝はまた好きになってほしかった。キラキラ光る、お空の星よ、と振り付きで歌っているユアが好きだったし。  ユアは瑞輝の前に来て、手を振り上げたりしなかった。 「びっくりした」と彼女は言った。「ピアノ、弾けるの?」  瑞輝は首を振った。「コレだけ」 「でもスゴイよ。上手かった」ユアは鍵盤に目を落とした。  瑞輝は別のピアノが自動演奏でクラシック曲を流しているのを聞いた。これは聞いたことがある。題名は知らない。 「この前は、ありがと。山内サンが教えてくれた」  瑞輝はうなずいた。目を上げることができない。 「怪我…してる?」ユアが覗き込む。「もしかして…」 「違う。これはその前から」瑞輝は右目に手を当て、顔を背けた。見るな。  ユアは覗くのをやめた。「ゴメン。迷惑かけて」 「あれは俺が勝手にやったことで、迷惑じゃない」  ユアは視線を合わせない瑞輝の横顔を見た。怒ってるのかな。やっぱり迷惑かけたし。 「お礼、させてよ。何か奢るよ」 「いらない」瑞輝は首を振って即答する。 「怒ってるから?」 「怒ってない」 「怒ってるよ。さっきから怖いもん」  瑞輝はユアを見た。やっと間近に目が合う。でもすぐに目を反らす。「そっちが怒ってるかと思って」瑞輝はボソッと言った。 「どうして?」ユアは目を丸くした。 「『きらきら星』弾いたから」  ユアは笑った。それから思い出してまた笑った。そう言えば、これをリコーダーで吹こうとしていた瑞輝を張り倒した記憶がある。からかわれてると思ったから。 「あのときは、だって笑われてると思ったんだもん。瑞輝、下手なフリするし」 「あれで精一杯だった」  ユアはうなずいた。「そうだね、今から思えば。でも誰だって誤解するでしょ、自分が失敗した曲を、それも全部知ってるあんたが吹いたりしたら。別の曲にしてよ」  瑞輝は黙ってユアの細い指を見た。発表会の日、何も弾けずに固まっていた彼女のじっと見つめる鍵盤から、音が聞こえたと言ったらきっとユアは怒るだろうと思った。冗談言わないでと。また張り倒されるのはごめんだ。 「まだ失敗した曲って思ってんだろ? そろそろ変えようぜ。前に失敗したけど今は一番上手く弾ける曲、とかに。一番じゃなくてもいいよ、そこそこ弾ける曲でも。とにかく変えてやれよ。好きだったんだろ?」  ユアは瑞輝をじっと見た。瑞輝はまたうつむいていて、目は合わせない。 「うん」  ユアが言うと、瑞輝は驚いたように顔を上げた。ユアは微笑んだ。 「あんたって、そういうとこあるよね。いっつも前向きで。人の大事なものとかに敏感で。いい奴なのに、見た目が悪いから誤解されるよね」  見た目がな。瑞輝は黙って右目の傷を触った。  ユアはそれを見て小さく息を飲んだ。ごめん、本気で気にしてた? 「見るな」瑞輝がまた顔を大きく背ける。「気持ち悪いぞ」  ユアは小さく首を振った。「あんたの怪我なんて見慣れてるよ」 「それ買うのか」  瑞輝はユアが持っている楽譜を見て言った。話を変えようとしてる。ユアは笑ってうなずいた。怪我の話はしたくないみたい。 「うん、もう習ってないけどたまに弾きたくなるの」ユアは今流行しているミュージシャンの楽譜を見せた。「瑞輝は? ピアノ買いに?」 「なんでだよ。買うわけないだろ」  瑞輝は向こうの方で泰造が暇そうにブラブラしながらこちらをチラチラ見ているのを見た。 「俺、もう行く」  ユアはうなずいた。「うん、じゃぁまた」  そう言うと、瑞輝はうつむいたままフンと笑った。 「また何か困ったことがあったら、俺に直接メールくれよ。山内サンじゃなく。山内サンと付き合ってんなら別だけど」 「付き合ってない、ない」ユアは慌てて否定した。いい人だけどね。  瑞輝は何も言わずに背中を向ける。 「またメールするね」ユアは瑞輝の背中に言った。瑞輝は何の反応もせずに、ユアも見たことがある赤井診療所の、いつもだらしない格好してる先生と一緒に向こうへ行く。何か楽しそうに二人で喋っている。  良かったとユアは思った。瑞輝が幸せそうで。  傷なんて関係ないのに。次に会ったら、それを言おう。ユアはそう決心して楽譜を抱いた。
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