プロローグ

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プロローグ

 その瞬間、悟った。いや、そもそもこの屋敷に呼ばれた時点で、悟らざるを得なかったのだ。  自分は、失敗したのだと。 「あの、ツォルン公爵様……。お戯れはおやめ下さいませ」  二人掛けのソファに腰掛けたリーリアは、自分の隣で優雅に足を組んで座り、自分の金色の長い髪を梳く青年にそう声をかける。明らかに自分よりも位の高い貴族である彼に、真っ向から反発することは出来ないけれど。何も言わずに受け入れることも出来なくて。だって。  この方、心臓に悪いのだものぉ……!  口に出すことなく心の中だけで、リーリアは筆頭侯爵家であるカイネス侯爵家の令嬢らしからぬ叫び声をあげていた。   今リーリアがいるここは、ダズィル王国の王城から南に進んだ場所にある、大きな邸宅。屋敷の主は今まさにリーリアの隣で、リーリアの髪を弄んでいるこの青年、クラキオ・ツォルン公爵である。  大陸の北部に位置するこの国、ダズィル王国には珍しい褐色の肌に、癖のある黒い長髪。鮮やかに輝く金色の瞳をうっそりと細める姿はあまりに艶っぽく、いつも社交界の令嬢たちの心をざわめかせていた。  そしてそれは、リーリアもまた例外ではない。直接言葉を交わしたことはないとはいえ、舞踏会や晩餐会など、彼が視界に入るたびにうっとりと目を奪われていたのは事実である。だがそれも、遠くから見ている場合のみ、だ。  この方、生きてるだけで色気が漏れてるとしか思えないというか、近くにいると息苦しい……。  真面目な話、自分の両親に兄に弟、皆容姿が整っていて、美しい人は見慣れている方だと思う。だがしかし、だ。この人のそれは、また違うのである。正直なところ、顔だけ見るならば兄の方が整っていると思う。けれど、この息苦しいまでの艶っぽい雰囲気というのは、今までリーリアの周りにはなかったもので。  本当に、心臓に悪いと思った。先ほどから異様に鼓動が速いから、おそらく一年分くらいは寿命も短くなっている気がする。まあ、顔に出すわけにはいかないので、必死に微笑んでいるわけだけれど。  そしてそんな心臓に悪い雰囲気を持つ青年は、リーリアの言葉にくすりと笑っていた。顔に合わせて誂えたような、低く甘い声色で、「ああ、ごめん。アイル嬢」と呟きながら。 「とても綺麗な髪だったから、思わずね。流石は、『王国の金の薔薇』と呼ばれるだけある。……あのことを隠してさえいなければ、すでに王子の妃として内定していてもおかしくないだろうに」 「……ふふ。ご冗談を」  うっそりと目を細めて告げられた言葉にばくばくと鳴る心臓を必死に宥めつつ、口許に手を当てて楚々と笑って見せる。社交界に出る者として、最低限の話のかわし方くらいはさすがに分かっていた。まあ、この人にそれを行ったところで、もう意味はないと分かってはいたけれど。  自分で言っておいてどうかと思うのだけど、冗談でもなんでもないのよね……。この方の仰ったこと。  彼の言う通り、あのことを隠さなければ、リーリアは現在の国王の息子、第一王子であるキースリール殿下の婚約者となっていたはずなのだ。いや、間違いなく、なっていた。  自分はそれを、知っている。  けれど、隠すことが一番だと思ったのだ。自分がこれから、少しでも長く生きていくためには。  そのために、誰にも気づかれないように注意していたつもりだったのに。  よりにもよってこの方に見られるなんて、本当に間抜けというか……。だって、まだ誰かがいるなんて思わなかったんですもの……。  今更考えても遅いと理解していても、後悔というのは胸の内にふつふつと湧いて出てくるもので。まあ、取りあえず今は、この屋敷を訪れた目的を果たさなければ。全てはそこからである。  リーリアは隣に座るクラキオに気付かれないよう俯き、気を奮い立たせるように一度深呼吸をして、再び彼の方へと向き直った。 「それよりも、本題に入りましょう? ツォルン公爵様。……どうすれば、あのことを黙っておいて頂けますか?」  それこそが、リーリアがこの屋敷に足を運んだ理由。周囲に言い触らされては困るのだ。これから先、少しでも平穏に生きていくためには。  わたくしが持っている物なんて何もないけれど、こうしてわざわざわたくし一人を屋敷に招待して下さったということは、話だけでも聞いて頂けるということだと思うから。  思い、真っ直ぐにクラキオの方を見て。  彼はしばらくリーリアの視線を受け止めた後、またうっそりと微笑んだ。口元に指の関節を添える仕種は色っぽく、そして。  ぞっとするほどに、冷たい目をしていた。  背筋に冷たい物が落ちていったような感覚に陥って、リーリアはびくりと身体を震わせる。  クラキオはただその艶やかな笑みを浮かべたまま、「そうだな」と口を開いた。 「俺の、『花嫁』になってよ」  甘い声音とは裏腹に、リーリアは自分が肉食獣の前に放り出された子鼠になったような、そんな気分になって。  自分は失敗したのだと、悟ったのだ。
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