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「病院に連絡するなんて、野暮な真似はしないでよね」
男はぴしゃりと言い放つ。
「きっと今頃、みんな血眼になってぼくを探してる。見つかるのは時間の問題だ。少しでいい……ほんのちょっとだけでいいから、見つかるまで、ここにいさせて」
淡く光る頭上の月に祈るように、男は一音一音、丁寧に言葉を紡いだ。これほどまでに強い意思の宿った言葉を聞いたのは、ものすごく久しぶりな気がした。
「誰かのお見舞いにでも行ってきたのかい」
黙ったままで男を見下ろしていると、男は唐突にそんなことを口にした。図星を突かれ、オレはさらに言葉を無くす。
「わかるんだ」男は言った。「長い時間、病院にいた人のにおいってやつがね。入院患者には入院患者の、お見舞いに来た人にはお見舞いに来た人の、それぞれ独特のにおいがするのさ」
「なんだよそれ、オレから消毒液のにおいがするってか?」
「それもあるけど、ぼくが言いたいのはそういうことじゃない」
うっすらと右目だけを開け、男はまっすぐオレを見て言った。
「きみからは、他人の死と向き合っている人のにおいがする」
目を見開くオレに、男は満足そうな笑みを浮かべた。再び瞼を下ろした男から、オレはそっと視線を外す。
「……姉貴が、入院してて」
言葉が勝手に、口を衝いて転がり出た。そう、と男は静かに相槌を打ってくれる。
「重いのかい、病気は」
「いや、病気じゃない。……心を壊して、自殺を図ったんだ」
オレのせいで、と続けた声は震えていた。
クソ親父による絶対支配から体よく逃げ、すべてを姉貴に押しつけて自由気ままな人生を手に入れたオレのせいで、やがて姉貴は、自死を選ぶまでに追い詰められることになった。
自分で自分のことを傷つけ、風呂場で血まみれになっていた姉貴。運ばれた先の病院で意識を取り戻すと、「どうして死なせてくれなかったの」と泣きわめき、オレや母さんのいる前でもう一度死のうとした。
「オレが……オレが好き勝手に生きてるせいで、英美里は……!」
眩暈がした。息が苦しい。あの時のことを思い出すといつもこうだ。
あまりの情けなさに、腹が立って仕方がなかった。自業自得だってのに、後悔の灯はいつまで経っても消えちゃくれない。
「ごめんね」
額に乗せていた右腕を下ろし、男は両の目をしっかりと開いてオレを見る。
「きみを苦しめるつもりはなかった」
ベンチに寝そべったままではあるが、男の顔は真剣そのものだった。あまりにも真面目な表情を浮かべているからか、だんだんおかしく思えてきた。
落ち着きを取り戻し、「あんたのせいじゃねぇよ」と苦笑いで応えると、男はほっとした様子で頬を緩める。
「これはとある物語の中の話だけどね」
そんな突拍子もない前置きを据えて、男はゆっくりと語り始めた。
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