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「さっきの歌」
素直に感謝の意を伝えられず、オレはそんな話を振る。
「あんたが作ったのか」
音楽の物語を引き合いに出したことからも、男が音楽に精通していることは予想できた。歌だけでなく、ギターも決して下手ではなかった。長く続けているのだろう。
「いいや」
しかし、返ってきた答えはまたしてもオレの想定から外れていた。
「残念ながら、ぼくには曲作りの才能がなくてね。あの曲を作ったのは、ぼくが大切に思っている人なんだ」
「カノジョ、とか?」
「うーん、どうだろう。お互いの気持ちが通じ合っていたことは確かなんだけど、恋人宣言はしなかったな。ぼくが自分の気持ちに気づいた頃には、それどころじゃなかったから」
意図をとらえ損ねて顔をしかめると、男は遠い目をして夜空を見た。
「ぼくと彼女が出逢ったのは、大学病院の小児病棟でのことだった。お互いどうしようもなくからだが弱くて、ひとたび入院すればいつだって顔を合わせるような感じでさ。学校の友達なんてろくにいやしないぼくらが仲よくなるのは自然の理だったんだ」
ほの暗い過去を感じさせる告白に、どんな顔をして話を聞けばいいのかわからなかった。幸い、男の視線はずっと夜空に注がれたままだ。
「彼女は歌が大好きな子でね。おもしろいくらいうまかった。中学生になった年、ご両親からギターをプレゼントしてもらってね。『元気になったら歌手になる』なんて言って、独学で曲作りを始めたんだ」
男は地べたに横たわっているギターを指さす。
「これ、彼女のギターなんだ。さっき弾き語りをした曲も彼女が作ったものでね。……彼女がぼくに遺してくれたのは、彼女が何よりも大切にしていた音楽だった」
そこまで聞いてようやく、オレは男が空ばかり見上げている理由を悟った。
大切に思っているというギターの持ち主は、この空の彼方に行ってしまったのだ。
「だからね、すごく嬉しかったんだよ。今日ここで、きみがぼくの歌を……いや、彼女の歌を聞いてくれたことがさ。……彼女の歌は、病院の中でだけしか響かせられなかったから」
ありがとう、と男は改めてオレに言った。たまたま通りかかっただけで礼を言われるようなことはしていないと思ったが、黙っているのも失礼かと、思ったままを口にする。
「よかったよ。あんたの歌も、あんたの大切な人が作った曲も」
男は嬉しそうに笑って、そのまま静かに目を閉じた。
小さな小さな森の中に、優しい風の音だけが聞こえている。
「おい」
今度こそ眠ってしまったのかと思い、オレは男の肩に手を触れる。
「だから寝るなって……」
言いかけて、はっとした。
ベンチで横になっている男の脇に慌ててしゃがみ込み、口もとに顔を近づける。
背筋が凍った。
男は、息をしていなかった。
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