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医者と少年兵
暗がりの木造りの部屋に一瞬血しぶきの残像が走ったのを少年は確かに感じた。
院長は拳銃を向け、こちらを見ている。
「このまま死ぬかい?」
「それともおかし食べるかい?」
話は少し遡る。
野戦病院のランプに伸びた子供達の影の中、もがくようにベッドを出る少年がいた。
山奥の野戦病院は軋んで音を立てる。
すでにランプに明かされた少年は差し込んでくる光から守るようにペンダントを握りしめた。
時間は既に一刻を争う。
少年はカーテンのかかった窓から薄らいで見える空とそれから廊下、玄関とつながる暗闇の奥をにらんだ。
「カイル行くぞ」
扉に近い仲間が手はずを整えている。少年がカイルと呼ばれると彼は頷いて指揮官のように手を下げた。
カイルという名は仲間同士だけの秘密の作戦名。
その作戦は夜中に相手指揮官を殺すこと。
廊下への扉は開け放たれ一層深い闇の奥から巨大な目がカイルと遅れて起き上がった仲間達を見つめているようだった。
一瞬足が止まり、手が微動したのを感じる。
しかし胸のペンダントを握りしめ密かに突撃の合図を送った。
深い闇の中に無数の子供達が吸い込まれていく。
しかし、程なくして皆は青い顔をして戻ってきた。
どうしたのかとカイルが一目散にベッドに入る子供達を見ていると後ろから院長につまみ上げられ、院長室へと担ぎ込まれたのだ。
それで今に至る。
「このまま死ぬか?」
院長は相変わらず拳銃を向けたまま冷然とこちらを見ている。
ああ、どうしよう。
先日入ったばっかりなのにな。
カイルは焦るでもなくそう思っていた。
こんな経験は今までに何度もした。
生きながらにして腕を焼かれたこともあったし、逆に眼球を焼いてやった時もあった。だから、自分もやられて当然。
この戦争に勝つために。
「死にます」
カイルもまた冷然と院長に視線を合わせる。
「そうか」
院長が引き金を引く。
しかしこの動作の中でカイルは一瞬ペンダントの暖かみを感じ目を閉じた。
顔がこわばり、目にいっぱいの涙が溜まった。
そしてカイルは死ななかった。
空砲だったのだ。
院長は深いため息をついて椅子にもたれる。
「相手側の指揮官の暗殺任務なんて無茶にも程がある。大体、手傷を負った年端もいかない少年兵の君達で一体どのようにして勝つというのだ」
勝つ。その一言にカイルは疑問を覚えた。
「勝つとはなんでしょうか」
「君、勝ちたくはないのかね」
「ええ、別に」
少年は緩んだ院長とは対照的に相変わらず憮然とした目をしている。
口調も何がおかしいというような当たり前のごくごく当然のことを言っているような。
「僕にとっては勝つことはまだ先のことだと思います。今僕が指揮官を殺せば少なくとも一時部隊の足は鈍るでしょう。だから、殺すのです」
院長はなおも深く息を吐く。
しばらく物音がした病院はもうすでに静まっていた。
「私はねこの戦いに必ず勝つ方法を知っているよ」
一瞬、カイルの目が開いた。
「それはどのような戦法でしょうか」
もしかしたら軍事学校では習わなかったもっと効率的に指揮官を殺せる夜中戦術かもしれない。
二人の一瞬の間が外の深い闇に纏われた静寂を連れてくる。
しかし、闇をもう一度遠ざけるように院長は口を開いた。
「それはね。相手の指揮官の心を殺すことさ」
その一言には言葉以上の皮肉が込められているのをカイルは肌で感じた。
「どんな戦いであっても指揮官が死ぬということは兵士が死ぬ確率より断然低い。だから指揮官がもうこれ以上続けられない。そう思えば戦いは終わる。少なくとも負けることはない」
院長は笑っていた。薄く、冷たく、乾いた唇がまるで自嘲するかのように。
「そんなことのために、たかが一人の心を折るために何万人、何十万人が厳しい銃を背負い。森を燃やし、人家を空襲し、無関係な人間を殺す。本当に無駄。無駄の極致さ。いっそ、指揮官同士でチェスをして勝敗を決めたって物事の本質は何も変わらない」
「しかし相手の先陣を切り崩すことや、動きを止めることも大事であると上官はおっしゃっていました。それはまやかしでしょうか」
軍事学校時代の木刀の傷が背中から声を出す。
「そんなものは自分はこんなに戦っているんだぞと周囲に叫んでいるだけさ。戦争が先陣の戦いのみで決まったことが一度でもあったかい?」
返答に窮する。
院長の目は明らかに今までの緩みとは違う。
深い奥行きのようなものを感じる。
「だが、戦争はそれを正当化する。そうすることでしか生きながらえないのだと幻惑を見せ本質を我々の引き戻せないところまで連れて行ってしまう。これは戦争という病だ。私は一度もこの病を治せず今日に辿り着いている」
「この病の治療法はきっと私では見つからないのだ」
白い白衣から院長は手を出してカイルのペンダントを握った。
「だから、私の見つけた本質でこの戦争という病を治す未完成の万能薬を誰かに託したいのだ」
院長の鼓動が聞こえてくきた。
手の中へと渡りペンダントに吸い込まれていく。
次の日の朝、空襲警報で目を覚ましたカイルは逃げ遅れた院長が建物の下敷きになったことを上官からの伝達で知った。
院長は言っていた。
「だが、今の方が私は昔より少し好きなのだ。こんな風にして誰かを叱っていることで私の気持ちを少なからず伝えられる。もしかしたら本質に気づいたところで独りでは何もできないのかもしれないな」
カイル、ではなく。
少年は野戦病院の残骸を処理している。
目の前には相変わらず戦争という病の犠牲になった骸が転がり、その中には院長の姿もある。
「おい」
いつのまにか少年は彼ら一人一人に手を合わせていた。
すると今まで見たこともない温もりが少年の中に染み渡り広がる。
「少しだけ、残っていってもいいかな」
不思議そうな顔をする仲間を見送って少年は全員に手を合わせる。
「だから、私の見つけた本質でこの戦争という病を治す未完成の万能薬を誰かに託したいのだ」
立ち上がった少年の靴に真新しい土が足跡を残して落ちていく。
朝焼けの雲ひとつない空。
今、少年の中でその生の風景が少し変わったような気がしていた。
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