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「その前は……女のこと……殴る男だった」
それでも彼女が生身の俺を求めたことは、ただ欲望からの穢れでも罪でもないはずだ。沈黙し、彼女を全身で求めている俺だって、決して、救われようなど思いもしなかった。
「その記憶が消えることもなかったわ……」
証拠に、昔話で生温い同情心は湧かない。怒りのエネルギーに勝る胸の軋む悲しみに、ただ飲まれることもなく、同じ温度でいた。だって欲望ありきの恋をしているから……。心の奥が熱いままで。涙が止まらない――。
人は結局、自分の経験から心を動かされ、ふと切ない記憶が蘇る時に、泣くのだろう。人の気持ちになって考えることなど難しい。殆どは、実体験による感傷から涙するのだ。
濡れた頬を抱く、冷たい手に掌を重ねる。堪らなく、ほっとする。また泣きたくなる。
「冷たくて気持ちいい」「初めて言われた」
「夏限定?」「炬燵の中でもちょうどいい」
「上手いこと言うね」「――繋いでいてよ」
手を繋ぐより、触れるだけのキスよりも、こんな時は人間、抱きしめたくなるだろう。冷たい指先が涙色に濡れた頬を撫でていた。話が逸れ、泣き笑い。一息吐く瞬間、瞬間。
肌触りの滑らかな皺一つないシーツの上、そのまっさらな純白を汚すことに悩ましく、眉を寄せ、唇を結び、心の奥で未来を想い、眠り込むように体温に浸り、見つめる間も。
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