青年たち

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生のピアノはいいなあと言いながら、彼は白鍵をなぞる。ポンと押し込まれた小さな木が、糸の手を引き響き鳴る。はじまりの音だ。442Hz(俺たちは445Hzが好きだけど)。 「弾かないの?」 「おー、弾こうか。」 俺のリクエストに答えて、彼は四角い椅子に座った。少し位置が低そうだ。猫背になりながら、冷え切っているであろう鍵盤に指を乗せている。両手の小指から、ドミノのようにたららら、と。その様が妙に艶っぽい。人を食らって遊ぶような獰猛な目つきで、自分の指と、その下の鍵盤を見ている。トントンと表面だけ軽く叩いて、和音をいくつか鳴らすと、彼は何かを弾き始めた。それがなんなのかは別に聞かなかった、だからこそ俺はスマートフォンを取り出して、彼の素敵な暴力をレンズに収めることにした。 サルサ調の軽快な性欲を叩き鳴らしながら、彼はときどき、俺やレンズを見て笑った。己がこれほどしなやかに獣がり、淫らなピアノを弾くのだと、俺に教え込むような笑顔だった。 跳ねたようなリズムと、野に放り出されたようなテンションが部屋に充満する。その身体が揺れて音に吸い込まれそうになるたび俺はひやりとするし、それを見て、また彼は笑うのだ。 秩序なんてない風に、彼はピアノを弾き続ける。そして俺はそれを眺めながら、皮膚の薄い部分に触れ、ただひたすら焦らすような抑揚を感じていた。スマートフォンを持つ手が震えて、画面がぶれる。彼の目の光はパステルのように淡い線を描いている、そしてそれが、録画されている。俺の手によって。顔が熱い。首まで熱い。耳の裏にきめ細やかな快感が走った。力を抜いたら声が漏れそうだと思った。視界がぼやける。 乱暴にリズムを崩し、掴みかかるような三連、繰り返される転調。その時鳴らしたい音を強引に鳴らし続ける彼の指。黒っぽいシャツ。浮き彫りになる首の筋。息をひそめる俺と、四方八方に散らばった、決して美しくはない音楽。欲と衝動の写し鏡だ。暴力的。女を殴ってから抱くような、そんな音ばかりだ。彼の開いた瞳孔は、どこを見ているのだろう。 唇が一等熱を持っている。そんな不埒なことばかり考えていたら、彼の演奏は終わっていた。まだカメラを回していることに気づいたのか(止め忘れただけだが)、彼はばっと立ち上がり、俺の方に腕を伸ばしてくる。顔は笑っていて、そのまま抱きしめようとしているみたいだった。俺はと言えば(まあ感覚的な話だが)、ちょっと重めのエクスタシーに沈んだままで、どうにも困っているところだった。 「いるだけでもいいんだな、お前は。」 スマートフォンを奪いつつも、やはり俺を抱きしめて、彼は言う。 「うん?」 「すごくよかったって話よ。次からもさ、うん、一生さ、そばで見ててくれ。」 自由になった両手で、彼の背中に触れた。少し汗をかいているようだった。耳許では声ばかりが聞こえる。 「なあ、愛してる?」 「そりゃ、愛してるよ。俺はさ、お前のための男だよ。」 「うん、最高だ。だけど、もちろん逆も然りだぜ。」 「お前は俺の男ってこと?」 「そう! お前、賢いよ。」 彼が黙っても尚鳴っているのは、幻のピアノと、不規則な心音だけだった。 世界より愛が素晴らしい。そしてもっといいのが、彼の生む音楽だ。つまり、つまりだ、息衝く彼の芸術が決してどこにも行かないように、俺は見ていなくちゃいけないのだ。これは俺だけに与えられた天命なのだろう。 「あともうちょっとなんだよ。」 「なにが?」 「お前がいなきゃ駄目になれるまで。」 とてもやさしい俺の男は、とてもやさしい声でそう言って、持っていたスマートフォンをカーペットの方に放った。俺はこのまま抱いてくれたっていいと思って、その背に手を這わせ続ける。俺だってもうじきだよとは、言わないままにしておいた。 これもぜんぶ撮れているのかな、と脳の隅っこでどっかの俺が呟いた。だけど、別にそれでもよかった。
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