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第3夜 後編
「人はだれでも、だれかに必要とされる存在になりたいのよね」
コーヒーを一口すすると、お客様はそういった。
「だれでも、だれかにとっての特別な『だれか』にさ」
急に難しいことをいわれたような気がして、ぼくは眠たくなってきた。ぼくは込み入った話を聞いてストレスがたまると、睡眠に逃げる習性があるのだ。それにしても、自分にはまだまだ分からないことだらけだ。
「そうですねぇ……」
「あんた、友達いるかい?」
気のない相槌をしたぼくに、いきなりお客様が尋ねた。
「まあ、そんなに多くはないですけど」
「その友達と、どうして友達になったの?」
ぼくはすぐに言葉が出なかった。
「生まれてから死ぬまで、長くてもせいぜい120年くらいの間に、いろーんな人と出会ったり、あるいはすれ違ってきたはずよね。私もあんたも」
「まあ、そうですよね」
「共通の趣味があるからかね。それとも、単に近くに住んでいるからかしら。それとも……」
お店の外は、だいぶ日が暮れて暗くなってきている。外の景色は、住宅街の坂道から平らの商店街へと移り、店の動きも傾きを元に戻してまた水平になった。
「どうなんでしょう。必ずしも、仲が良い友達と、趣味が合うとも限らないですしね」
幼稚園時代、仲の良かった友達がアブラゼミを夢中になって食べている様子を急に思い出しながら、ぼくは答えた。その友達は、昨年久しぶりに会ったときにも、ゲテモノ食いがライフワークになっていると嬉々としてぼくに話してくれた。
「でも、なにかしら共通のものがあるかもしれないしね」
お客様の姿は、元に戻りつつある。
「不思議よね。人と人の出会いってね。人だけじゃないけど」
お店の動きが止まった。
外の景色に目を向けると、そこは見慣れた車道に沿った並木道だ。元の景色に戻ったのだ。
「あの……。クジャクの話はどうなったんですか?」
水を差すようで悪いと思ったが、ぼくはお客様にそう尋ねてみた。
「そうね……。たとえば、同じ時代に生きている人間が78億人いる中で、親しくなる人もいれば、疎遠になる人もいるでしょ」
お客様の姿も、すっかり元の姿に戻っていた。
「私にとって、そのクジャクは特別なクジャクのように感じられたのよね。でも……」
お客様は大きな息をはいた。
「そのクジャクは、ある日お店から姿を消してしまった。その代わり、私の住む家のすぐ近くにある、大きな家の庭先にいるのを見つけたの」
なるほど、さっき坂道にいた後ろ姿の女の人は、こちらのお客様だったのか。ぼくは合点がいった。
ということは、お店の窓は、こちらのお客様の人生の歩みを回想していたのだろうか。
「私のものになるかもしれなかったクジャク。でもほかの人のものになってしまったクジャク。でも忘れられない。それなら……」
お客様は、鳥かごをあごで指し示した。
「飼ってしまったことにすればいい。あくまでも心の中で」
「心の中で……?」
やはりこのお客様は頭がおかしいのだろうか。
ぼくは眠気を冷まそうと、余ったコーヒーをカップに注いで口に含んだ。おじさんからは、店のコーヒーを1日1杯なら飲んでも良いと事前に許可をもらっていた。
「まあ、一種の妄想だろうねぇ。かれこれ30年前の話よ」
お客様は、そういってにこやかに笑った。
「鳥かごだけ買ったんですか……。いないクジャクのために」
「そう。そうやって自分を落ち着かせてたのね、きっと」
お客様はカウンターの上をじっと見つめている。
「そうでもしないと、気が狂っていたかも知れないね」
ぼくは、そこまでそのクジャクにこだわるお客様の心理が理解できなかった。
もしかしたら、このお客様は、クジャクにかこつけて、何か別のことを話しているのだろうか。
「あんた、ジャネット・リンって分かる?」
お客様が、また唐突に質問してきた。
「いいえ、よく知りません」
「そう。じゃ、あんたが小学生の頃に読んで面白かった本は?」
ぼくは困惑しながらも、考えた。
「えーと……『テーオバルトの騎士道入門』とか……」
「私はまったく知らない本ね」
しばらくの間、沈黙がカフェの中を支配した。
「ほらね。共通の話題を見つけるのも一苦労よ。出会いって不思議でしょ」
お客様はそういってまた笑った。
「とにかく、シンクロニシティっていうの? そのクジャクは代えのきかない、運命的なクジャクだったのよ。私にとってはさ」
ぼくは、一見平凡な市民にしか見えないお客様の心の闇を覗き見てしまったような気持ちになった。
でも、そのあとにお客様はこういったのだ。
「でも、もう手放そうって思ってね。それで今日、あんたんとこに来たわけよ」
さっきまでのいたずらっぽい表情から一転して、お客様の表情は真顔に変わっていた。
「それは、どういうわけでですか?」
「それはね……」
お客様は残ったコーヒーを一気に飲み干すと席を立った。
お客様に連れられて、ぼくは鳥かごを持ってお店の外に出た。時刻は午前3時。
「可愛がっていた亀がこの前死んだの。もう40年買っていたんだけどね」
外灯のそばに立ったお客様の顔は、妙に晴れ晴れとしている。
「名前は亀五郎よ。見た目はゴロツキみたいな亀だったけれども、もう家族同然だったから、うちの人が心底悲しんでねぇ……。私も悲しかったけど、もっと落ち込んでたわ、あれは」
ぼくの手に預けられた鳥かごを見て、お客様は目を細めた。
「あんなに大好きだった競馬も競艇もパチンコもやめちゃうくらい落ち込んでたわ……。そんな様子を見て、クジャクよりも大切なものにようやく気がついたのよね」
ぼくは、飼い犬のハッピーが息をひきとった日に、ぼく以上に母のほうが大声で泣き崩れていたことを思い出した。
「あんたんとこのマスター、脱サラしてカフェはじめたんでしょ?」
今日のお客様は質問が多い。
「そうみたいです」
「勇気あるわよね。すでにある地位を手放したわけだから」
そういって、お客様はぼくの手から鳥かごを受け取ると、話を続けた。
「だからあんたんとこに話を聞いてほしかったわけよ。まあ、あんたもじきに分かるときがくるさね、大切なものを勇気を出して手放さなくてはならなくなる気持ちを……」
そして、鳥かごの鍵を開け、針金状のケージをゆっくりと開いていった。
「私のクジャク……。さようなら」
そのときだった。
いきなりばさばさっと羽を開く音が耳に響いてきた。
外灯の明かりに照らされて、そこに現れたのは、それは、それは美しい1羽のクジャクだった。青、黄色、紫、赤、緑。その羽の色は、さまざまな色彩が絶妙なバランスで混ざりあっていた。
「おぉ……」
お客様は、涙ぐみながら声をあげた。
「久しぶりね。わざわざ姿を見せてくれたのね。私のために」
クジャクは羽を大きく広げて、お客様の顔を見つめた。そして、大きく羽ばたいた。
「あのクジャクにも、きっとまた会えるって信じてるのよ」
クジャクが彗星のごとく夜空に消えていったあとで、お客様はぼくに話してくれた。
「でも、あのクジャクは、今日、自分から手放さなかったら、きっとまた会うことはできなかったわね」
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