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第4夜 後編
道路の向こう側にいるお客様は、険しい顔をしてズボンのポケットからなにかを取り出した。
それはピストルだった。
お客様は、手に持ったピストルを自らの頭に向けた。
「お客様……! おかしな真似は止めてください!」
ぼくはあわてて二車線の道路の中央まで走り寄った。
「うるせぇ! こっち来んじゃねぇ!」
お客様はまた怒鳴ると、ピストルを空に向け1発発泡した。
その直後、また銃声の音が辺りに鳴り響いた。
ぼくは訳が分からないまま、道路の真ん中に立ち止まってお客様に話し続けた。
「もしあなたが死んだら、あなたの家族や、あなたを愛している周りの人たちがみんな悲しみます!」
お客様はまだ仁王立ちになってピストルを手に固まっている。
「あなたの奥さんもお子さんも、本当はあなたのことを愛していて、あなたが無事に帰ってくるのを待ち望んでいるんですよ!」
ぼくは、そのお客様に奥さんや子供がいるのかも、もしいたとしてもどのような家庭環境なのかも知らないのに、口からすいすいと言葉がこぼれ出てきた。
そのとき、またどこからともなく霧が立ち込め、辺りは暗くなった。
いつの間にか白っぽい姿のお客様はいない。そこは見慣れた真夜中の道路と並木道に戻っていた。
ぼくが首を傾げながらお店に戻ると、カウンターには、さっきと変わらない様子でお客様がたたずんでいた。
ぼくがあ然としてお客様を見つめると、お客様はちらっと自分の顔を見た。やっぱり無言だ。
今のは一体なんだったんだろう。
ぼくは、カウンターに戻って、またお客様のそばに立ちながら類推をはじめた。
外にいたお客様と違って、目の前にいるお客様は、やはり穏やかな表情でどこかを見つめている。時折、エスプレッソを口に運ぶときも、その表情は変わらなかった。
ぼくは、心の中で神様にお祈りしてみた。
(神様、このお客様は、今どのような状況にいるのか分かりません。どうか、こちらのお客様が守られ、なにか問題があるなら解決されますように)
お客様の様子は勿論変わらない。だが、ぼくは祈りながら、はたと気がついた。
こちらのお客様はひょっとして、ものをいうこともできないような「なにか」と今戦っているということを。
微笑に見える眼差しをしているが、本当は心の中は痛みと苦しみでいっぱいだということを。
自分自身を傷つけるか、人を傷つけかねないような瀬戸際の状態を、今、必死でこらえ、保ったままでいることが伝わってきた。
その詳細は分からないが、伝わってきてしまったのだ。
ぼくは、さっきまでの自分が、あまりにも迂闊でデリカシーのない考えばかりしていたことを思い知った。
そのとき、お客様がゆっくりとした調子で口を開いた。
「エスプレッソ、……もう1杯」
ぼくがエスプレッソを用意してお出しすると、お客様はそれをゆっくりと口に運んだ。
それからしばらくして、お客様が、伝票を手に取って席を立ったとき、時刻は午前4時だった。
今日のお客様は、丸々4時間、ほとんどなにもしゃべらないまま、エスプレッソを2杯飲まれただけということになる。外で会った、もうひとりのお客様を除けば。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています」
レジで会計を済ませ、ぼくが当たり障りのない口調でそういうと、お客様は、口元をゆるめてこういった。
「ありがとう」
その言葉は、さっきまでよりもお客様の生気が感じられる一言だった。
お客様が帰られたあとで、消音モードにしてあるスマートフォンをポケットから取り出すと、新着メールが届いていた。
おじさんからだ。ぼくはすぐに開けてみた。
「返信できなくて申し訳ない。国際便で先月分の家賃を送ったから、◯日は夜8時までに店で待機していてほしい。
では引き続き留守番よろしく。以上」
◯日は今日のことだ。
やはりLINEには音符の絵文字が付けられている。その音符は、今回はなぜか2個に増えていた。
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