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第5夜 中編
その少年……いや、お客様は、丁寧なですます口調で話しかけてきた。
「アイスコーヒーはありますか?」
まだ声変わりもしていないから、小学4、5年生くらいだろうか。ぼくは慎重に応じた。
「ええ、ありますよ。でも、こんな遅くに大丈夫かな?」
「アイスコーヒーください」
お客様は間髪入れずにそう返事をした。その言葉には、「俺はアイスコーヒーを飲むためにここに来たんだ」とでもいわんばかりの信念が感じられた。
ぼくは、夜遅くに小学生にコーヒーなんかお出しして、あとで問題にならないかと内心心配になった。でも、注文通りアイスコーヒーをお出しした。
お客様は、被っているお面の隙間から、ストローを差し込むと、コーヒーにシロップを混ぜ、そして美味しそうにすすった。
「酸味と苦さのバランスが相まって、さらに氷で薄められた砂糖と調和されて格別な味になってますね、これは……」
まるでなにかの評論家のような口ぶりで、お客様は感想を述べた。
「ありがとうございます。ところで君は、さっきからどうしてお面を被っているの?」
そう聞くと、お客様は身を乗り出した。
「それを聞きますか? それなら、そもそも、なんでぼくが、このお店に預けられて、ぼくのお父さんは行ってしまったのか、のほうが、もっと気になるんじゃないですか?」
いちいちいうことが勘にさわる子供だった。だが、子供なので優しく応じなくてはいけない。
「じゃあ、それを聞こうか」
「ちょっと外に出て話しませんかね。どうせお客さんはぼく1人ですから。あなたも暇でしょ」
この野郎……。ぼくは怒りをこらえながら答えた。
「ごめんね。今は一応営業中だからね。それに、お父さんももうすぐ戻ってくるんじゃないかい」
「朝まで戻ってきはしませんよ」
お客様は、吐き捨てるようにそういってから「フォッフォッ」と笑った。
さらに、ぼくを挑発するようにこういった。
「怖いんですか?」
そのとたん、ぼくの脳裏に、おじさんからいわれた言葉がまたしても思い出された。
「お客様には、どんな時であっても真心を込めてフレキシブルに接するように。公序良俗に違反しない限り、好き勝手にやってくれ」
ぼくは、一拍置いて答えた。
「よし。なら行こうか」
お店の窓に貼り紙で、自分の携帯番号が書かれた書き置きを残し、ぼくは店の電気とクーラーをつけっぱなしにしたまま、お客様と店を出た。
「鍵をかけるからちょっと待っててね」
「随分と用心深いんですねぇ。フフフ」
随分と上から目線の子供だが、なぜか憎めないところもあった。とにかく今夜は、ふたりで真夜中の街中に繰り出すことになったのだ。
ドロ人間や、さっきのお兄さんが向かった十字路をまっすぐ左に進むと、小川に面した散歩コースがある。春になると、そこはあたり一面が桜で満開になるところだ。今は夏なので、桜の木には緑の葉っぱが生い茂っている。今日はそのコースをふたりで一周することにした。
「ぼくは今、昼夜逆転しているんです」
こんな暗い夜道で、お面を外せば良いと思うが、お客様はお面をつけたまま歩く。歩きながらしゃべりはじめた。
「夏休みが明けるまでには戻さないとまずいんですけど……」
ぼくたちは、スマートフォンのライトを懐中電灯代わりにして、ひたすら前を進む。風がひんやりとして気持ちがいい。
「お母さんは、今妹とおじいちゃんちに帰ってるんです」
お客様は、かなり話好きな子供のようだった。色々身の上を打ち明けてくれる。
真上の空を眺めると、今夜は満月だった。月の光が左側の川面に反射して、きらきらときらめいている。
「それでお父さんは?」
ぼくが歩きながら尋ねると、お客様はいきなりため息をついた。
「まだそれを知りたいですか?」
「え?」
ぼくは、お客様が自分を散歩に誘った目的が分からなくなった。
「だって、それを話すために表に出たんでしょ」
「しっ!」
お客様がいきなり声をひそめた。
「猛獣のうなり声がしますよ」
ぼくは、ギクッとして思わず立ち止まった。
どこかから、ライオンか虎のような獣の鳴き声が小さく響き渡っている。
お客様は、急にぼくの手を握った。その手は冷たい汗でびっしょりと濡れている。
「神様、助けてください……」
小さい声でつぶやいたのは、ぼくではなく、お客様のほうだった。
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