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第5夜 後編
ぼくは、声に出してこういった。
「イエス・キリストの名によって命じる。悪魔よ、立ち去れ!」
そのとたん、猛獣のうなり声はすぐさま消えた。
ぼくとお客様は、黙って道をまた進みはじめた。
おかしいな……。この川沿いの道は、前に1、2度歩いたことがあったけど、こんなに長い距離ではなかったはずだ。
必ず途中で、川沿いをUターンできる橋とつながった道路に飛び出すはずなのだ。けれども、今日はずっと変わらずに道はまっすぐ延び続けている。
「ねぇ、コーヒー屋さん」
隣を歩くお客様が、おもむろに口を開いた。
「なんだい……」
「ちょっと右を見てみてください……」
ぼくたちが歩いている散歩道は、左手に桜の木を挟んだ川が、右手にいくつもの住宅地が並んでいる。ぼくは立ち止まって、右側に顔を向けた。
「あれぇ?」
そこに住宅地はなかった。
ぼくの目に飛び込んで来たのは、人工的な建造物がすべて取っ払われた、なでらかな草原だったのだ。
「ちょっと、ここでひと休みしませんか」
お客様はそういうと、いきなりその草原に向かって走り出した。ぼくはあわててあとを追った。
だだっ広い草原は、果てしなくあたり一面に延びている。月明かりとスマートフォンのライトでは、その範囲は特定できなかった。
お客様は、川から30メートルほど離れたところまで一気に走ると、ごろんと草の上に寝ころんだ。
「今日は月がよく見えますねぇ……」
このお客様は、本当に子供なのかな……。子供に化けたおっさんなのではないか。そんなことを考えながら、ぼくはお客様の隣に腰をおろした。
「ねぇ、コーヒー屋さん」
お客様が、ぼくに尋ねかけた。
「さっきは、どうやって猛獣を追い払ったんですか?」
「あ、あれはね……」
ぼくは返事をした。
「ぼくの信じている神様の名前を使って追い出したんだよ」
お客様は、ずっと葉っぱが描かれたお面を被り続けているから、表情が分からない。
一体今、ぼくの言葉を聞いてなにを思っているんだろう。ぼくは話を続けた。
「ぼくの信じている神様は、この世界の本当の所有者だから……」
「なるほど、なるほど」
お客様は、さも深く納得したようにそういうと、小さくうなずいた。
「その神様の名前に力があるというわけですね」
「ぼくのお父さんは……」
お客様が月を見つめながら、ゆっくりと語りはじめた。
「夜になると、決まって行く場所があるみたいです」
「夜になると行く場所?」
ぼくもお客様のそばで横になりながら相槌を打った。
「はい。まあ昼間っからの日もありますけどね……」
なんだろう。ぼくは、いろいろなイメージを頭に思い浮かべたけど、もし、外れていたら恥ずかしいなと思って、なにもいえなかった。
「コーヒー屋さん。あなたにもそんな場所があるんじゃないですか?」
お客様は、腕を後ろ手に組んで枕にしながら、冷静な口調でそういった。
「えっ? そんなのはないよ」
「ホントですか?」
お客様は、お面をつけたままの顔をこちら側に向けた。
「行くのをやめたくてもやめられない場所。家族を犠牲にすることをもいとわない。自分で自分の心にふたをして、思わず向かってしまう……」
ぼくはお客様のお面を無理矢理はぎとった。
「真面目な話をするときは、お面くらい外せよ」
「なにするんだよ!」
暗闇の中、月明かりに照らし出されたお客様の顔は、目がギロリとつりあがり、その口調は一瞬にして変わっていた。
「この野郎。お面を返しやがれ!」
お客様はぼくに向かって指を差した。
「ぼくはそのお面があるから、さっきから安心していられたんだよ。お前の信じる神様がどうだか知らないけどな。ぼくがもし神様だったら、お前なんか今すぐ地獄に送っているぞ!」
ぼくは、お面をお客様のほうに放って返した。
「すみません」
謝ったのは、ぼくではない。お面を被りなおしたお客様のほうだった。
「ぼくは、お面がないとダメなんです……。特に、今日みたいな夜には」
ぼくは、すぐに言葉を発することができなかった。そして一拍置いてから、お客様に答えた。
「いや、こちらこそ、ごめんなさい。確かに、自分もそんな場所に行ってしまうときが、今まであったかも知れません」
そのとき、すぐそばの草の間から、ゴロゴロとまるで猫がのどを鳴らすような声が聞こえてきた。
「あれは、ライオンですよ」
お客様がいうより先に、ライオンが現れた。そのライオンはこちら側に歩み寄ると、穏やかな鳴き声をあげながら、自分とお客様のそばに体を寄せてきた。
その姿は少し怖いけど、その様子に怖さは感じなかった。さっき聞こえてきた猛獣のうなり声とは、まるで違うライオンだった。
「さっき、あなたが悪魔を追い出してくれたからですね」
そのライオンの頭をなでながら、お客様がそうつぶやいた。
「ライオンも優しくなっている」
それからそのライオンと別れたあと、ぼくとお客様は川沿いを折り返して、お店に戻った。
時刻は午前2時。お店の前には、ワゴン車に乗った、あのお兄さん、そしてお姉さん、そして小さな女の子が待機していた。
ぼくがなぜ、お客様を連れてカフェを抜け出したかを問うことも、咎めることもしないまま、お兄さんはお客様に謝っていた。
今まですまないことをした、今の会社はもうやめて、また新しい仕事に就くから……、という風な話だった。
お客様は、いつの間にかお面を外していた。背負っていたリュックサックの中にしまい込んでしまったらしい。目もつりあがってはいなかった。少し潤んでいるようにも見えたけど、たぶん気のせいだろう。
お客様は、無言で自分に頭をさげると、車に乗り込んだ。お兄さんが代わりにコーヒー代を支払うと、車を発車させた。
ぼくは、お客様がお店をあとにしたあと、ひとりきりになったカフェの中で、スマートフォンを開きながらふと思った。
今、この瞬間にも、お面を被った子供と大人は、この広い世界には沢山いるのかも知れない。
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