第6夜 前編

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第6夜 前編

 お店から帰宅して眠っているとき、夢の中にハッピーが現れた。  ハッピーは、昨年の春に息をひきとってから、夢にたびたび現れる飼い犬だ。  今日はなぜか、いつになく真剣な眼差しをしている。自分をただ黙って見つめつづけている。次第に、その瞳が夢の中でクローズアップされていく。  眼球で画面が真っ黒に埋めつくされた途端、目が覚めた。  6日目。雨の土曜日。  土曜日は、普段ならおじさんの奥さんがお店を手伝いに来る日だ。  だが、今日はおばさんは来ないと聞いた。おじさんは海外に旅立つ前、「かわいい甥には店番を任せよ」という変な格言を残していた。おばさんもそれに従っているのだろう。  本来ならこのお店は、毎月第2火曜日と毎週日曜日が定休日なのだが、今回の臨時営業は7日間ぶっ通しとなっている。丸々1週間の徹夜勤務は、思ったよりも体にこたえてきていた。 「あれ? ない……」  午後9時35分。お店の前に到着したぼくは、ズボンのポケットから鍵を取り出そうとして、思わずつぶやいた。  今朝方、お店のシャッターを閉じ、鍵をかけたところまでは覚えている。あのときは確かに鍵があった。おじさんから預かった大事な合鍵だ。そう簡単になくすはずがない。  でも、なかった。帰ってから、家でパジャマに着替えて休んだあとに、昨日と同じズボンをはいて出かけた。家の鍵と一緒に合わせて持ち運びしていたはずなのだが、朝のときすでに落としていたのかも知れない。  お店の番も残り2晩というところで、締め出しか……。ぼくがしゃがみこんだそのときだった。 「あのぅ、君……」  優しそうな男の人の声がして、後ろを振り向くと、そこにいたのは、1本のギターケースを背中に抱えた3、40代くらいの茶髪の男性だった。 「この鍵、見覚えはないかい?」  その人の手のひらにあったのは、コーヒーカップのキーホルダーが付いたお店の合鍵だった。 「あ、ありがとうございます! うちのお店の鍵です」  ぼくがお礼をいってその鍵を受け取ると、その人はこういった。 「君んところのカフェに寄らせてもらうよ……」  よく見ると、その人は、こんな雨の中、傘も差さないで立っている。真っ黒い革ジャンはびしょ濡れだ。それなのに、不思議な暖かい笑みを浮かべ続けていた。  その顔を見て、ぼくはすっかり安心して、その人を開店前のお店の中にうっかり招き入れてしまった。  全身濡れネズミ状態だったお客様は、自分が手渡したタオルで体を拭いたあとには、まるで見違えるほど格好よくなっていた。  ビジュアル系のロックバンドみたいなファッションだが、顔つきはジャニーズに近い感じだ。  お客様はカフェラテを注文された。  ぼくが、ミルクの分量を四苦八苦しながら量っていると、後ろからお客様が声をかけてきた。 「あわてなくていいよ……」  ゾウ、ドロ、クジャク、ピストル、お面と、これまで出会ってきたお客様たちのことを思い浮かべながら、ぼくは妙な気分になった。  こんなに思いやりのある一言をかけてくれる来客が今まであっただろうか。今夜のお客様は、一体なにを抱え込み、なにを求めてうちのお店を訪れたのだろう。  ギターケースを持っているから、ミュージシャンだろうか。カフェラテをお出ししてからしばらくして、ぼくがそのことを尋ねてみると、お客様はこくりとうなずいた。 「ビートルズとグレイとドラゴンアッシュを足してミーシャで割ってから、山本譲二をかけたようなパンクバンドだよ」  お客様の説明は、自分にはよく分からなかったが、とても興味深く感じられた。それから、お客様は饒舌になり、音楽の素晴らしさについて延々と語り続けた。  時刻は午前1時。雨は止む気配を見せない。外では雷の音も時折鳴り響いていた。 「あれ、もうこんな時間か」  お客様は、腕時計を見ると顔をほころばせた。 「心地よいカフェでのひとときは、時の経つのを忘れさせてくれるね」  どこかで聞いたことのあるセリフだ。この人は、かなりモテるだろうな……とぼくは思った。 「ありがとうございます。ほかにご注文はよろしいですか?」  ぼくが尋ねると、お客様は「そうだな……」といってから、口を開いた。 「ビールを出してくれないか」  ぼくは、少し戸惑いながら、お客様に謝った。 「すみません、うちはコーヒーしかないんです」 「そうか。ならしょうがないな。じゃあ……」  お客様はにこやかな表情でつづけた。 「タバコでも出してくれよ」 「すみません……、うちは禁煙でして……」 「分かった。なら女を出せよ」  お客様の顔つきは、ずっと優しげだ。だが、自分に対して無理難題をふっかけていることは明白だった。 「すみません、うちはそういうお店じゃないんですよ」 「ふふふふふふ」  お客様は、ぼくの目をじっと見つめながら、さも楽しそうに笑った。 「今、『あれっ?』て思っただろ」  お客様の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。そして、お客様は歌うようにいった。 「今夜は楽しい夜になりそうだなぁ」  ぼくは心の中で、自分が信じている神様の名前を呼び続けながら、今夜はどうやら長丁場になりそうだと覚悟を決めた。
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