第6夜 中編

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第6夜 中編

「俺はただ、君みたいな善良な人間のうろたえた姿が見たかっただけだよ……」  お客様はそういってから、また「ふふふふふふ」と低い声で笑った。  そのいい方には少し腹が立ったが、お客様の理不尽な要求は、それ以上エスカレートすることはなかった。  その代わり、こう質問をされた。 「君は神様を信じてるのかい?」  前にも聞いたことのある問いだ。2日目の夜、ドロを売る女の人から尋ねられた質問だった。 「はい。どうして分かったんですか?」 「だって、さっきから小さい声で『主よ~主よ~』って叫んでいたじゃないか」 「あ……」  ぼくは心の中で祈っていたつもりだったが、知らないうちに口から言葉が漏れ出ていたらしい。  ぼくの祈りがきかれたのか……。神様に感謝しながら、ぼくはいった。 「そうでしたか……」 「そうでしたかって、それはこっちのセリフなんだよ」  お客様の眼差しは優しい。うっすらと浮かんでいた涙はすっかり消えてなくなっていた。 「若いうちから信心深いんだなぁ」 「いえ、そんなことはありません」  お客様の言葉を、ぼくはすぐさま打ち消した。 「ぼくは、善良な人間でも、信心深い人間でもありません。ぼくは信仰がないからイエス様を信じたんです」 「んあ? 信仰がないから?」  お客様は、カフェラテを一口口に入れると、目を見開いた。 「詳しく聞かせてくれよ」  ぼくはその要求に応じることにした。 「ぼくは、クリスチャンホームで生まれ育ちました。ぼくは、本当は、自分の力で自分を変えたかったんです。でも無理だった……。自分の中にある嫌なところを、自分でなくすことができなくて……」  ぼくのしどろもどろの話に、真剣に耳を傾けるお客様の顔からは、いつの間にか笑いが消えていた。 「ぼくが学校に行けなくなったのは、いじめが原因でした。そのストレスを癒すために、ぼくはその頃飼いはじめた豆柴の犬をいじめました」  ぼくのズボンのポケットから、スマートフォンの振動を感じる。だれかからの着信だろうか。それとも気のせいだろうか。  それを一旦無視して、ぼくは話を続けた。 「1年くらいして、申し訳なく思って、それからはいじめることをやめましたけど……。その犬は、ぼくを恨むことも憎むこともしないで、いつもぼくの手や鼻をなめては愛情を表してくれました。  やがて自分が大学生になってから、その犬は認知症と白内障になりました」  店内の有線放送からは、暗い話題を打ち消すような軽快なボサノヴァが鳴り響いていた。 「去年の春、その飼い犬が、朝から急に苦しみ出して、ゲージの中で固まっていたんです」  雷がどこかに落ちる音が外から鳴り響いた。 「母とぼくとでは、病院に連れて行くこともできなくて、その犬はぼくの膝の上で、苦しそうに鳴き叫びました。ぼくは、その犬を膝に乗せながら、夜勤から帰宅する前の父に長いメールを打ちました」 「メール?」  お客様がかすれた声で問いかけた。 「自分が神様にした罪を告白して、神様と和解したいって書いたんです。ぼくの飼い犬が苦しんでいる姿が、神様からの懲らしめに見えたものですから」  時刻は午前1時36分。壁の時計の針がなぜかそのときは鮮明に見えた。 「ぼくの代わりに、ぼくの飼い犬が罰を受けているように感じたんです。イエス・キリストが、もともと神なのに人の子としてこの世に生まれ、ぼくの罪の罰を代わりに受けられたように」  お客様の顔は、汗でびっしょりと濡れていた。 「自分のために死なれた、イエス様の十字架の意味がそのとき分かったんです。  イエス様は死んでよみがえられました。イエス様を信じれば、死んでも生きる。  ぼくはその春、神様を信じきれない思いも、イエス様に委ねようと思って、洗礼を受けたんです」  そのときお客様の顔が、いきなりふくれあがった。 「お客様……!」 「剥がしてくれ……」  お客様がうめくようにいった。 「俺の仮面を……。化けの皮を……」 「なんですって?」 「俺を殺してくれ……」  ぼくは、彼の顔に張り付いている「お面」に気がついた。それは葉っぱのお面ではない。人の良さそうな、優しげな目をしたミュージシャンの顔そのものだ。昔テレビでやっていた、ハリウッド映画の特殊技術みたいだった。  ぼくは、お客様のそばに近寄ると、その皮を思いっきりひっぺがした。  ぼくは、驚きのあまり言葉を失った。なんとそこに現れたのは、ぼくの顔そのものだったのだ。
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