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第6夜 後編
「まんまと騙されたようだね」
ぼくの顔を被ったまま、お客様はそういってにやりと笑った。
「あっ! こいつも化けの皮だったのか」
ぼくは、お客様の仮面をまたしても剥ぎ取った。
すると今度は、泣き顔の女の人の顔が現れた。それをまた剥ぎ取ると、今度はサングラスをかけたマフィアのような顔が現れる。
仮面をいくつ剥がしても、本当の顔はいつまでも姿を見せない。
カウンターの下には、まるで巨大なタマネギの皮みたいな、さまざまな人間の顔の仮面がいくつも散らばっていた。
「助けてくれよ……」
白髪の老婆になった顔で、お客様はそうつぶやくと自分のほうを向いた。
その声自体は、最初からずっと変わらない。優しくて大人しそうな男の声のままだった。
お客様は、お店の玄関を右手で指差した。
「分かりました! 今、あっちへ行ってみますね!」
ぼくは、よく分からないままそう叫ぶと、お店のドアを開けて外に出た。
雨音も、雷鳴もすっかり消えている。なんとそこは、薄暗い洞窟だった。
洞窟は、地下に向かって、斜めに長く道を張り伸ばしている。ぼくは、スマートフォンのライトをつけると、その先を進むことにした。
真っ暗な洞窟の中を歩きながら、お客様のことでだんだんとぼくは腹が立ってきた。
なんで自分が、あんな人を弄んで、生きる力を奪い取っていくような男と同じになるんだ。一瞬だけとはいえ、あんな人間と自分が同じ種類の人間とは思いたくない。
すると、心の中に、「お前だってそう大して違わないだろ」という声が即座に響いた。
「お前だって、意識的にも、無意識のうちにも、人にしたことも、神にしたことも、全てわたしに赦されてきたんじゃないのか」という心の声が……。
地下へと繋がる細長い洞窟は、やがて8畳ほどの広さの空間へと行き着いた。電気もないのに、そこだけはなぜか明るい。見ると、天井のすき間から灯りが差していた。
その部屋の中央には、透明なガラスケースが、まるで博物館の標本台のように、ぽつんと1つ置かれていた。
そのガラスケースの中には、大きな釘が突き刺さった心臓の模型が入っていた。
いや、模型ではなくて本物かも知れない。どうやら冷凍保存されているようだ。ガラスケースやその心臓には、たくさんの霜がくっついている。
もしかしたら、これは、お客様の心臓で、あの釘のせいで、お客様の「良心」が凍結しているのかも知れない……。
でも、仮にそうだとしても、このガラスケースは開け方が分からないし、あの釘を抜くと、血が出て逆に致命傷になりかねない……。
結局、自分にできることは祈ることだけだった。
お客様が救われますように。短く祈る。具体的に祈れない……。やっぱり、これだけじゃダメだ。
祈るだけじゃなくて、なにか行動しないと。ぼくは、ガラスケースを開けてみようと、蓋のありかを探した。
そのときだ。いきなり背中をつままれて、ぼくは後ろにのけぞった。
「ダメだよ……」
心の中に、懐かしい声が響き渡る。後ろに立っているのは、1日目の夜に出会ったあのゾウだ。
「あなたのするべきことは、そこじゃないよ」
その長い鼻で背中をつままれたまま、ぼくは5日ぶりにゾウからお説教された。
「なんだよ、いきなり消えたと思ったら、またいきなり現れるんだな、君は」
ぼくは心の中で、ゾウにいい返した。
「あのお客様の心は、あなたの力だけでは変えられないよ」
ゾウは、前に会ったときよりも、ひとまわり大きくなっているように見えた。
「じゃあ、見殺しにするのかい」
ぼくは心の中で、ゾウに少しきついことをいってしまった。
「あのお客様の心を理解するのには、限界があるよ」
「だから、できることをやったら、あとは委ねるだけでいいんだよ」
ゾウはそう答えた。
ぼくは、ゾウの鼻に無理やり引っ張られる形で、その部屋からさらにその先の洞窟の道を進むはめになった。
ハッピーも、元気なうちは、いつも飼い主より先に進みたがったなぁ……とぼくは懐かしくなった。
薄暗い洞窟は、今度は地上に向かって道を伸ばしていた。
「必ず、あの人の傷は癒される」
ゾウは、ぼくを鼻で引っ張りながら、ぼくの心の中に話しかけた。
「というよりも、もうすでに癒されはじめているんだよ」
ぼくはそれを聞いて「本当かな?」と思った。するとゾウは、間髪入れずに心の中で答えた。
「目に映る景色に惑わされてはいけない」
このゾウは、すごい役割を神様から与えられているんだな……。ぼくは、思わずその言葉に感心して唸った。
「確かにその通りだね」
ぼくは声に出してそう返事をした。するとゾウは、鼻の力を緩めると、ぼくを離した。そして、口から言葉を発した。
「ぼくのいうことを分かってくれてありがとう」
目の前に、お店の半開きのシャッターが見える。そこから光が漏れ出ている。
「じゃあまたね」
ゾウは、ぼくをじっと見つめると、口もとを緩めた。笑っているのだろうか。
「またね」
ぼくもそういうと、お店の中に戻った。
時計の針は午前5時37分。
お客様の姿は見えなかった。その代わりに、便箋と1万円札が3枚、カウンターの上に置かれている。
便箋には、こう書かれていた。
〈ごめんね、ありがとう、ごちそうさま。またいつかコーヒーを飲みに行きます。君と会えて、話ができて良かった。〉
便箋を置いて外に出ると、鳥のさえずりがどこかから聞こえてきた。雨は止んだみたいだ。天気は曇り空だけど、おぼろげながら太陽が顔を出している。夏の朝は早い。
お客様に対する怒りは、ぼくの心の中から消えていた。代わりにぼくは、今度また会えたときには、お客様の顔をもっとよく見てみたいと思った。
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