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第7夜 後編
ドーナツを食べる前のお客様の仕草を見て、ぼくの推理は確信に近づいた。
「これは、旨いドーナツだねぇ~」
お客様は大げさに目を見開いてぼくを見やると、カウンターの右側を手で差し示した。
「君もこっちに来て座りなよ」
「えっ?」
「君とゆっくり話がしたい」
お客様は笑っている。その眼差しはとても柔らかだった。
最後の夜だし、まあいいか……。残ったドーナツの入った袋と、まかないの入ったコーヒーカップを手に持つと、ぼくはカウンターをまわってお客様の隣の席に座った。
今日は外の風が強いせいか、店内がみしみしと揺れている。
お客様は、しばらくのうちは、ただ黙ってコーヒーを味わっていた。
が、やがて、思い切ったように、お客様が突然口を開いた。
「組織っていうのは、結局ナマモノと一緒なんだよな」
「えっ? それは一体、どういうことですか」
「冷蔵庫に入れて保存しても、いつか必ずナマモノは腐るだろ」
半分に減ったドーナツを、いとおしそうに見つめながら、お客様は話を続ける。
「遅かれ早かれ、人間の組織もいつかは必ず腐敗するのさ」
「といいますと……」
お客様は、自分の顔をじっと見つめた。
「たとえば、会社とかサークルみたいな組織の中では、自分とは考えが違う人とも付き合わなくてはいけないときもあるだろう?」
自分から目をそらすと、お客様は顔を真正面に向けた。
「悲しいときにも喜んでいるふりをしなくちゃならないときもあるかも知れないしさぁ……」
お客様はコーヒーを一口すすった。
「周りからも誤解され、それでも引くに引けなくて、そのまま自分ではない自分を演じつづけなくてはならなくなることもある」
ぼくは、初日に訪れた、ゾウ人間のお客様の寂しげな表情を思い出した。
お客様は慌てたように付け加えた。
「これはあくまでも一般論だ。炎上すると怖いからね」
「それは……」
ぼくは、思わず口を開いた。
「それは……なんだい?」
「それは、家族だって同じじゃないですか」
一瞬だけ黙りこむと、お客様は答えた。
「そうだよ」
飛行機の飛んで行く音がやけに大きく店内に響き渡った。
その音が小さくなってから、お客様は再び口を開いた。
「ここまでは私の意見だ。今度は君の意見を聞かせてくれ」
「自分は……」
ぼくは、すぐに言葉が浮かばなかった。なんとか、心に浮かんだ言葉を手繰り寄せた。
「好きなものや、親しみがあるものでも、ときには疎遠になることもあるし、はじめは馴染みが薄いものでも、それを好きになったら自然に親しみが湧いてくるものだと思います」
お客様は、ただ黙ってじっとぼくの目を見据えている。
「家族でも友達でも、出会って仲良くなる中で、相手のある部分が苦手になったり、逆に相手に自分の欠点を見つけられたり……。
そうこうしているうちに、また仲直りして、お互いに仲良くなっていくんじゃないですかね」
「それが君の組織論か。うん。いいね。それも、確かに一理、あるモガね……」
お客様は口にドーナツをほおばりすぎて、まるでクルミをほおぶくろに入れたリスのようになっていった。
一応いってはみたものの、組織論といえるほどのものか分からない。考えが煮詰まりきれておらず、自分でも確証の持てないものだった。
ぼくはお客様に尋ねた。
「お客様は、ひょっとして牧師か神父じゃないですか?」
するとお客様は、黙って自分の顔を見つめた。
そのとき、スマートフォンの振動音がズボンのポケットから響いた。
「電話出ていいよ。外で話してくれ……」
それでぼくは、一旦シャッターをくぐると、お店の外に出ようとした……けど、出られなかった。
お店のすぐ目の前に見えるのは、今まで見たことのないほどの大きな、大きな月だった。
なんとお店は、地上から遥かかなたの夜空を浮かんでいたのである。
ぼくは、黙って外の景色を眺めながらスマートフォンを耳に当てた。
その声は、おじさんだった。
「おじさん……」
「これから飛行機に乗るところなんだ。また着いたら連絡するよ」
おじさんの声は、自分が子供の頃から全く変わっていない親しみのある声だ。
「元気な声が聞けて安心したよ。ではまた」
それにしても、エンジンもついてないのに、うちのカフェはどうやって空に浮かんでいるのだろう。
それより、この状況をお客様に知られないようにしなくては……。でないと、また面倒なことになる。
そう思ったぼくが後ろを振り向くと、目の前にお客様がいた。
「君。なんで俺が牧師だと分かったんだい?」
「食前に、手を組んで祈る仕草を……」
「それだけか」
少し寂しそうな顔をして、お客様はぼくの顔を見た。
「あとは、なんとなくですけど」
「そうか……」
カフェの入り口から地上を見下ろしてみた。街の明かりが小さく見える。
「あの、実は自分も一応クリスチャンなんですけど……」
ぼくは、お客様にいった。
「クリスチャンって、地の塩っていわれてますよね。要はこの世界の腐敗を食い止める働きを担っていると……」
「まあね」
お客様は、その場にしゃがみこんだ。
「だれであろうが、人間の力だけでは無理なんだよ」
「でも……」
ぼくは、話を続けた。
「担われていると……」
「うん」
お客様は、お店のソファで寝入ってしまった。カフェは相変わらず、ぽつんと空を浮いている。
ぼくは、急に、夜空を歩いてみたい衝動にかられた。今ならいけるんじゃないか。カフェが浮いている、今なら……。
思いきって外に出てみると、夜空を普通に歩くことができた。
真上を見ると、数えきれないほどの星の光があたりに散らばっている。博物館のプラネタリウムを思い出す。
今度は下を見る。ぼくは我が目を疑った。
望遠鏡で見るみたいに、地上の景色が見える。地上の街は、今まさに朝になるところだった。上空は未だに夜中なのに。一体どうなっているのだろう。
多くの人たちが横断歩道を渡っている。その中に、なんと自分の姿も見える。自分は、周りの目を気にしていたり、逆に、場所によっては全く周りを気にしないであくびをしたりしている。
自分自身をまさしく俯瞰で見るのは初めてのことだった。
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