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第1夜 中編
「俺はいつも孤独なんだ……」
赤みがかった顔で、変わり果てた姿となったお客様は、コーヒーを口に運んだ。その手は、かろうじて人間の指の形をとどめているように見えた。
ぼくは、自分が夢を見ているのかもと思いながら、店の外をちらりと見た。
そこには、いつもと変わらない並木道と道路が、街灯に照らし出されている。
そこに、ぬっといきなり大きな影が現れた。
ゾウだった。
ゾウは、半分開いたシャッターのそばに顔を向けると、長い鼻でお店のドアの窓ガラスをつん、つんとつついた。
入れてくれということかな。ぼくは、ゾウに変身してしまったお客様に「ちょっと、すみません」といってから、お店のドアを開けに行った。
本物のゾウは、子供と大人の中間くらいの大きさだった。
いくらだれもが寝静まった真夜中の時間といえども、都内の路上をゾウがうろついているなんて話は今まで見たことも、聞いたこともない。どこかの動物園から逃げ出したのだろうか。それとも、サーカスの公演から抜け出してきたのか?
万が一、走っている自動車や自転車とぶつからなくて良かったなと思いながら、ぼくはそのゾウを店の中に迎え入れた。
ゾウに変身してしまったお客様は、カウンターの上に頭を抱えこんだまま、まるで酔っ払いのように泣き声をあげていた。
不思議なことに、そのときのぼくは、突然やってきたゾウに対して恐ろしさはあまり感じず、ゾウに変身したお客様に対しての恐怖心や不安な気持ちも消えてなくなっていた。
ゾウは、カウンターの近くにゆっくり、ゆっくり近寄っていくと、メニュープレートを長い鼻でつん、つんとつついた。
ゾウの鼻はちょうどカプチーノの写真を指し示していた。
「いらっしゃいませ。カプチーノね……。ちょ、ちょっと待ってね」
ぼくはあわててカウンターの中に戻ると、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
出来上がったカプチーノを、ゾウの前に差し出した。ゾウは、嬉しそうに鼻を持ち上げると、慎重にカプチーノの上に鼻を寄せていき、浮かんでいるミルクを吸い上げていった。
まるで猫のようにのどをゴロゴロ鳴らしながら、ゾウは満足そうに目を細めた。
一方、ゾウ人間のお客様は、ゾウがいることにまるで気がつかないようすで、ずっと同じ姿勢で固まりながら、うわごとをつぶやき続けている。
「俺にはどうせ居場所なんかないんだ。俺は下戸なんだ……」
ぼくは、そのようすを困惑しながらも、少しいらいらしながら眺めていた。
居場所は、ここにあるじゃないか。カフェはもともと、人と人の憩いの場として作られたんだ。この人は、勝手に自分はひとりだと思い込んでいるけど、そうやってまわりを無視しているから、みんなから距離を置かれるんじゃないのか。うちの店に来ておいて、なにがひとりぼっちだ……。
ぼくは、よっぽどそのお客様に「あなたは孤独じゃありませんよ」と声をかけようとして、口を開きかけた。そのときだ。
お客様の隣でカプチーノを飲み干したゾウが、ぼくの言葉を制止するように、やおら動き出すと、ゾウ人間のお客様に近寄っていって、そのそばにぴたりと寄り添った。
そしてつぶらな瞳でお客様の顔をまじまじと見つめながら、その長い鼻をお客様の頬に押し当てたのだ。
いつの間にか、店内に流れていたBGMは消えていた。
ゾウは、ゆっくりと目を閉じると、口をゆっくりと開け、低い声で鳴き声をあげた。
そのとき、ゾウの目から、涙のしずくが一粒こぼれ落ちると、お客様の持っているコーヒーの中にポチャリと落ちた。
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