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第1夜 後編
「なんだか腹減ったなぁ……」
ゾウ人間のお客様が、ぽつりとつぶやいた。
「なんか甘いものを出してくれないか」
それを聞いて、ぼくは困った。
「すみません、うちは食べ物は扱ってないんです」
ぼくがそういうと、お客様の顔色が変わった。
「なにい? ないだと? なけりゃ買ってこいよ」
「そんな……。こんな真夜中ですよ」
お客様の顔はだんだんと険しさを増してきた。
「お前、さっきから適当な相槌ばかり打ちやがって。仕事を甘く見てるな。こっちはさっきから気づいてるんだよ」
お客様の顔を真正面から見ると、ぼくはどうしても「怪物くん」に出てくる宇宙人を想起してしまう。しかも、今や本当にゾウの化け物になっているのだ。その姿のまま、真剣な顔でなにかいわれても、滑稽にしか見えない。ぼくはその顔を見て思わず吹き出しそうになった。
ふと、お客様に寄り添うゾウの視線に気がついた。
ゾウは、悲しそうな顔をして、その目でぼくに「いけないよ」と語りかけていた。
その目を見て、ぼくは、去年の春に息を引き取った、飼い犬のハッピーという豆柴のことを思い出した。
ハッピーは、ぼくが一時期、学校に行けなくなった、小学2年のときから我が家で飼っていたオス犬だ。なにかを訴えるとき、いつもハッピーはぼくの瞳をまっすぐに見つめながら、声にならない声を発していた。
ぼくは、「なにか困ったことがあったらLINEしてくれ」といっていたおじさんの言葉を思い出した。
「すみません、ちょっとお待ちください」
そういって、ぼくは奥の部屋に入った。
そこでスマートフォンを開くと、新着LINEの知らせが届いている。それはおじさんからだった。
「今、飛行機で仁川空港に向かっている。機内では、軽食を楽しんだり、音楽や映画を鑑賞してゆったりと寛ぐ予定だ。
なにか困ったことがあったら自分で対処すること。以上」
おじさんのLINEには、音符マークの絵文字も添えられていた。
ぼくは、宙を見据えると、しばらくなにも考えることができなかった。
(神様……ぼくはどうすればいいんでしょう)
ぼくはお祈りするしかなかった。
ふと、お店のすぐそばの交差点に、「九時五時」というコンビニがあったことを思い出した。
ぼくは、カウンターに戻ると、お客様に声をかけた。
「甘いものを買ってきます。どんなものがいいでしょうか?」
「アイスでもスイカでもなんでもいいよ」
それを聞いて、ぼくはお店を飛び出した。
ぼくは、お店を出て我が目を疑った。
お店の中から見る外の景色は、車道に沿ったふつうの並木道なのに、外に出たとたん、そこは密林に変わっていたからだ。
ゾウ人間のお客様を慰めていたゾウが、いつの間にか一緒についてきていた。
「こっちだよ」と手招きするみたいに、ゾウはまっすぐ密林の中を進んでいく。ぼくはそれについていくしかなかった。
真夜中の密林は、意外と涼しかった。
密林を歩いていると、かすかな光が見えた。
九時五時が、そこにはあった。まるでアフリカの砂漠で、道に迷ったときに見る蜃気楼のようだ。でも、本物の九時五時だった。
店内に入ると、店員が「っしゃいませー」と声を出した。よく見ると、半分寝ているようだ。ゾウがレジのそばを通っても、店員は目を半開きにしたまま固まっている。
ぼくは、急いでアイスコーナーから抹茶モナカを取り出すと、お店のレジで会計を済ませた。
「りがとっしゃー」と店員はいった。どうやら「ありがとうございました」といいたいみたいだった。
カフェに戻る途中、ゾウはぼくの横に並んで歩いた。そして、何度もぼくのほうを向いて、ぼくに目で語りかけた。……ように感じた。
「あのお客さんの顔を見た?」
「うん、見たよ」
ぼくは心の中で返事をした。
「あの人は、とても傷ついているんだよ」
「そうみたいだね。でも、だれでもそういうところはあるんじゃないかな。それに、あのお客様は、心の傷を愛おしく感じているみたいだったよ」
「……」
「心の傷を愛してはいけないでしょ。心の傷は治さないと」
ゾウは、答えていった。
「そうだね。でも、心の傷を治そうとする前に、やらなくちゃいけないことがあるんだよ」
ぼくは、間もなくカフェの前に着こうとする前に、立ち止まって、ゾウに声を出して尋ねてみた。
「やらなくちゃいけないことって?」
「その人を理解してあげることだよ」
ゾウも、なんと声を出して答えた。人間の言葉でだった。
「その人の痛みや苦しみを分かってあげることだよ」
ぼくは、その通りだと思った。でも、少し悲しい気持ちになりながら、ぼくはいった。
「うん、でも、人の悲しみを、完全に理解することは、人には難しいんじゃないかな……」
ゾウは、今度は目で会話をした。
「そうだね。それでも、分かろうとすることはできるよ」
ゾウは目で答えた。
「分からなくても、理解しようと試みることはできるよ」
ゾウは、そのまま密林の奥にある路地裏のほうに消えていった。
ぼくがカフェに入ると、いつの間にかお客様は人間に戻っていた。
そして、差し出した抹茶モナカを喜んで食べると、コーヒーのおかわりを注文した。
「さっきは、腹が減っていたから、腹を立ててすまなかったね。俺は腹ペコになると気がおかしくなるんだ」
ぼくは、お客様の満足そうな顔の中に、かすかな寂しさがあるのを感じ取った。
「こちらこそ、うまく対応できなくてすみません」
「いや、いいんだ」
お客様は、まるで自分に言い聞かせるようにいった。
「いいんだ」
気がつくと、お店の外は明るくなってきていた。
「お会計、釣りはいらないよ」
お客様は、5000円札をひらひらとカウンターの上に置くと、席を立った。
「い、いくらなんでも、多すぎですよ」
ぼくがお札を返そうとしたが、お客様はいった。
「いや、いいんだ」
お客様が帰られたあとで、ぼくはお店のシャッターをおろすと、鍵をかけた。
お店の外は、元通りの車道に沿った並木道に戻っていた。
そのとき、朝日が、自分の頬を優しくなでるようにいきなり差し込んできた。目の前に広がる太陽の光を見ながら、ぼくは、目には見えないけど実在する神様から頬をなでてもらったように感じた。
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