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第2夜 前編
吊り革につかまって、帰りのバスに揺られていると、自転車で坂道を下っている中年の男性が、にこやかな顔を向けてこちらに手をふってきた。
ぼくは思わずその人に手をふり返してしまった。周りを見てみたが、バスの中にいる人たちはみんな素知らぬ顔をしている。
人違いだろうか。こういうことって、だれにでもあることなのだろうか。
2日目。夜10時ちょうどにお店を開ける。今日は夕方から小雨が降りはじめてきた。
おじさんからは、あれからうんともすんとも連絡がない。LINEをしても既読がつかない。もう仁川空港に着いたのだろうか。
そもそも、なんでおじさんは韓国に向かっているのか。なぜ初日のお客様がゾウに変身したのか。どうして本物のゾウにお説教されなければならないのか。全く分からないままだった。
お店を開けて2時間。時刻は正午をすぎた。雨が本降りとなってきたせいか、人通りは少ない。
店内の有線放送は、心地良いジャズのリズムを奏でている。
ぼくは本を読みながら、お客様が来るのを待っていた。だが自分の心はもやもやが残ったままだ。
あのゾウのいっていたこと、自分にもできるのだろうか。相手を理解すること。相手を理解しようと努めること。
実際は、人の気持ちを分かったふりしかできないのではないだろうか……。
ぼくは、電車の中で知らない女の人と隣り合わせで座ることがある。友達でも恋人でも家族でもないのに、体が密着し、たまに頭を寄りかかられると、ぼくは緊張するが、相手はなにを考えているのか分からない。おそらく、単に眠いだけなのだろう。隣にいる人なのに、なにをしている人なのか、だれを愛しているのか、その人の行き先はどこなのか、なにも分からないのだ。
ぼくは考えがまとまらなかったり、ストレスや心配事があると、インターネットの世界に逃げ込む習性があった。
スマートフォンを開けて、ニュースサイトにアクセスしていると、突然きれいな女の人がウインクをして微笑みかけてきた。マンガや雑誌の試し読みサイトの広告だ。ぼくは、周りにだれもいないのを確認すると、そのサイトにアクセスしようと人差し指を画面に近づけた。
そのとき、いきなりお店のシャッターをガシャンと叩く音がした。
ぼくは、我に返ってスマートフォンを流しの台に置くと、お店のドアを開けた。
そこにいたのは、赤いワンピースを着た、長い髪の女の人だった。
傘もささずにずぶ濡れの女の人は、ギロリと自分をにらみつけるようにしながら、低めの声でこういった。
「マスターはいる?」
「マスターはいません……」
その人はやせてスタイルが良く、きれいな顔をしていたが、年齢は分からなかった。魔性の女とはこういう人のことをいうのだろうか。
「あんたバイト?」
怒ったような口調で、女の人はカウンターにどかっと座り込むと、ぼくにたずねた。
「タオルくらい用意しなさいよ」
「す、すみません……」
ぼくは、タオルなんてあったっけ……と内心ひやひやしながら、カウンターの下の収納庫を開けてみた。あった、あった。食器拭き用だけど、この際仕方がない。
「紅茶はある?」
自分が渡したタオルで体を拭きながら、そのお客様はまたぶっきらぼうな調子で尋ねた。
「すみません、うちはコーヒーしかないんです」
「ならいいわ。ブレンドのホットをちょうだい。ミルク付きで」
ブラジルとグァテマラの粉を半分ずつ取り分けたぼくは、マスターに教わった方法でコーヒーを淹れはじめた。
「前に、ここの店を通りかかったとき、店先にいたマスターと立ち話したの。オーダーもしないのに……」
ブレンドを飲みながら、お客様はだんだん落ち着いた口調になっていった。
「久しぶりに楽しい時間が過ごせたから。今日はそのお礼のつもりで来たのよ」
「今の時間に、お店が開いてるとよく分かりましたね」
「昨日の夜、仕事の帰りに見たのよ。ここにお客さんが入っていくのを」
「そうですか……」
ぼくは、失礼だと思いながら、お客様にこう質問してみた。
「ちなみに、なんのお仕事をされているんですか?」
すると、お客様は急に黙りこんだ。そして、カバンから携帯を取り出すとこういった。
「写真見てみる?」
ぼくは少し緊張しながら、「はい」と答えた。
画面は真っ黒い。まるで地面を近距離で写したみたいだ。
「なんですか、これ」
「ドロ」
お客様は、つまらなそうにそう返事をすると、いきなり自らのほっぺたをつまんでみせた。
「私は、ドロを売って生活していたの。それも昨日までだけど」
戸惑いながら、ぼくはいった。
「昨日まで?」
すると、お客様は手のひらをぼくに差し出して見せてくれた。
チョコレート? いや、それは土の塊のようだ。
「ドロよ」
お客様は、自分を刺すような目で見つめながら、話を続けた。
「ドロ」
「ドロって……。コソドロですか?」
ぼくがそう聞くと、お客様の目から突然、ボロボロと黒い粒が流れ落ちた。
それはまさしく、ドロの涙だった。
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