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第2夜 中編
お客様がどうして涙を流したのか、ぼくには分からなかった。
その涙がドロだったことよりも、気の強そうなお客様が、急に泣いたことのほうがよっぽど不思議だった。
そんなに自分の言葉が相手を傷つけてしまったのだろうか……。
「申し訳ありません。変なことをいいました」
ぼくは、お客様に対して、軽はずみにコソドロといってしまったことを後悔していた。ドロと掛け合わせたしゃれのつもりだったのに。
またやってしまった。自分には、ほんのジョークのつもりでいった一言で、人を怒らせてしまうことがよくある。失言癖があるのだ。しかし、人を笑わせようとして泣かせてしまったのはこれが初めてだった。
「いいのよ、気にしないで」
お客様はハンカチで目を拭うと、そういって微笑んだ。
「昔のことをちょっと思い出しただけよ」
気がつくと、雨音はさっきよりも激しさを増してきていた。
突然、お店の電話のベルが鳴った。
ぼくは壁の時計に目をやった。時刻は午前1時をまわった頃だ。こんな夜遅くに、どこかの間違い電話だろうか。それとも、まさか、空港に到着したおじさんからでは……。
ぼくは、一抹の希望的観測を抱きながら、一拍おいて、電話の子機の受話ボタンを押した。
「はい、カフェ・ソスペーゾです」
すると、いきなり若い男の大きなダミ声が電話口から響き渡った。
「お前んとこの店に、女が来てるだろ?」
「な、なんのことですか?」
「ドロの女だよ」
「え、あなたはどなたですか」
「俺だよ俺。俺って伝えれば分かるよ。とにかく今からそっちに行くからな」
男が早口でそうまくしたてると電話は切れた。
「私のドロを売って儲けていた連中ね」
お客様がいった。
「間もなくここに来るわよ」
その言葉から間髪入れないうちに、お店のシャッターをガシャガシャと激しく叩く音がした。
「おーい、出てこーい」
「ちょっと隠れていたほうが良さそうですね」
ぼくは、お客様をカウンターの隣にある化粧室に案内すると、引き戸を閉めた。
「いらっしゃいませ」
ぼくがお店のドアを開くと、そこにいたのは、人間ではなかった。
そこにいたのは、ドロ人間だったのだ。
形は人間なのに、身体全体がドロで固められている男がふたり、傘を差して立っている。表情は読み取れず、まるでじゃがいもみたいだ。
「ヤスコ。いるのは分かってんだよ。出てこい!」
小さい細身のドロ人間が、そう怒鳴った。電話口の声と同じだ。
「ちょっと入らせてもらうよ。いいかい?」
雪だるまに似た体型のもうひとりのドロ人間が、穏やかな口調でそういった。
「すみません、うちには、女のお客様は来ていません」
ぼくは冷静さを装って、そう答えた。
「んなわけねぇだろ。GPSがビンビン反応してんだよ!」
すっとんきょうな大声で、細身のドロ人間が、ぼくの肩を傘を持っていないほうの手でつかんだ。その男の手はぐにゃりと柔らかい。
本物のドロだ……。ぼくの肩はたちまちドロまみれになった。
ふたりのドロ人間の背後を見ると、大雨がまるで滝のように路上に降り注いでいた。まるでスコールだ。
「今、自分は店番をしている者です。マスターがいるときに、またご来店ください」
ぼくは、ドロ人間があまり怖く感じられなかった。だって、ドロでできているのだから、お湯をかけたら一発じゃないか。
それに……。ぼくは、1日目の夜、おじさんからいわれていた言葉を思い出していた。
「もし、うちのカフェに、お前やうちのお客様に危害を加えるような者が来たら、絶対に中に入れるな。俺の名前を出していいから」
お店を後にする前、確かにおじさんはそういっていた。
「ここは俺の店だ。困ったときは、俺の名前を出せ。そうすればなんとかなる」
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