第2夜 後編

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第2夜 後編

「おい。ちょっと待てよ……」  雪だるま風のドロ人間が、細身のドロ人間の肩を叩いて、手に持っているスマートフォンを見せた。 「GPSの信号がなくなっている」 「おかしいな……」  ぼくは、ふたりにいった。 「そういえば、先ほど、赤いワンピースを着た女のお客様が来店されました」 「そいつだ、そいつ! て、ことは、今はいないのか?」  細身のドロ人間が色めき立った。 「はい、ブレンドを飲まれたあと帰られました。あっちのほうに……」  ぼくが、左手にある十字路を手で指し示すと、ふたりとも、停めていたバンに飛び乗って、お礼もいわずに、そちらに向かって走り去っていった。  おじさんの名前の威力を知ることは、今回はできなかった。  お客様が、いつの間にか化粧室から出て、カウンターのそばに立っていた。 「携帯の電源オフにしたから」  そして、自分を軽く抱きしめた。 「もう大丈夫。ありがとね……」  お客様の体は、微妙に柔らかい気がした。やはりドロでできているのだろうか。でも、ぼくの体はドロまみれにならない。  ぼくは、「この人は、決して自分のことが好きで抱きしめてるんじゃないんだぞ……」と心の中で念を押しながら、子供の頃、塾のお姉さんに優しくしてもらったことを思い出した。  お客様の薬指には、紫色のパールの指輪があった。 「先月結婚が決まったの。年内には式が挙げられるといいんだけど」  お客様は、ブレンドの2杯目を飲みながら、ひとりごとをいうみたいに身の上を話しはじめた。 「それはそれは……おめでとうございます」  ぼくは、そうはいったものの、なんだか気がかりに思えた。お客様の顔が少し沈んで見えたからだ。 「お互いがお互いを思いやれる。私にとって、とっても素敵な相手なんだけれど……」  お客様は、コーヒーカップをお皿の上にカチャンと置いた。 「私にとっての過去が、今でも、まとわりつくようについてくるの。さっきみたいに」  ぼくは、なんと相槌を打てばいいのか、困りながら、こういった。 「でも、さっきの人たちは、もう行ってしまいましたよ。また来るかもしれないけど……もう、縁の切れた人たちなんですよね?」 「私のように、本心を偽ってドロを売る人間は後を絶たないわ。ドロはいつでも、見知らぬだれかの役に立つのよ。身体に塗れば美容になるし、飲めば健康促進剤になる」  お客様は、宙を見つめながら、自分の返事を無視するようにして、まるで夢遊病者のように語り続けた。 「ドロを盗む人もいれば、『いいですか?』と遠慮がちに持って行く人もいる。一時は、ドロをあげないことが、かえって悪いことのように思えたけど……」  お客様の目には、よく見ると大きなクマがあった。 「今はもう違うの」 「そうですか……」  ぼくは、そう答えることしかできなかった。そして、訳もなく申し訳ない気持ちになった。  雨は変わらずに激しく降り続いている。 「今、生きてきた中で一番くらい幸せなの。なのに、気がつくと、泣いている」 「……」 「過去が、いつでも私を追いかけてくるのよ」  ぼくは、そのとき、とっさに偉人の格言や、聖書の一節を引用して、お客様を励ましたい衝動にかられたが、「それは違う」という思いが、どこからともなく心に湧き起こってきた。これは、なんなんだろう。  ぼくは、ふとお店の外に目を向けて、思わず「わっ」とつぶやいた。  街灯に照らし出されている、雨の色が赤い。ワインレッドの、まるで血の色だ。  血の雨が降っている。異常気象によるものだろうか。それとも、なんらかのライトの反射のせいだろうか。  そうじゃない。神様が泣いている……。血の色をした雨が、滝のように降り注いでいる様子を見て、ぼくは直感的にそう感じた。  その瞬間、心の中で、「なぜ分からないのか」「どうしてあなたたちは、まだなおも自分で自分を苦しめ続けているのか」という言葉が浮かんできた。  そのあとのことは覚えていない。  目が覚めたときには、自分はカウンターのすぐそばの壁にあるソファに横になっていた。いつの間にか、体には黄色のカーディガンがかけられている。  カウンターには、お客様が置いていったと思われる千円札が、2枚置かれていた。  朝だ。雨は止んでいた。お店の外に出てみると、血の色ではない普通の水たまりが、あちらこちらにできている。  朝日がまぶしい。空を見上げると、今まで見たことのないほどの大きな虹が、雲と雲の間にかけられていた。
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