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思い起こせば、事の起こりは今日の昼休憩だ。
★★★
トイレから出て来てハンドタオルで手を拭きながら会社の廊下を歩いていたすみれ。
その目の前に突如現れた雷馬が、すみれを壁際まで追い詰めてきた。
ーーーなに?社長?!
壁に追い詰められ、驚いたままのすみれは背中を壁につけて目の前の雷馬を見上げる。
「えっ、あれ?!」
すみれの顔の近くに、ダン!と手をついて真っ正面に立った雷馬。涼しい顔で目を見開いたすみれを見て、愉快そうに口角を少し上げてみせる。
さらに、色気のあるかすれたハスキーボイスで
「ねぇ、きみ。今日から俺の専属秘書をやってくれない?」
と言ってきた時、すみれは正直、自分の耳をだいぶ疑った。
「は?わたしがですか?」
「そう。花岡 すみれ。入社して3年にも関わらず営業トップの成績をほこる才女だよね? 」
「確かにトップですが……それが何か?」
「じゅあ、きみだ」
雷馬は、すみれに顔を近づけてきて、深く吸い込まれそうな漆黒の瞳でジッとすみれの瞳を見つめてきた。
「やり手の才女って聞いたから、ただの仕事だけのおかたい女子かと思ってたけど……なんだ、案外かわいいだね」
ーーーか、かわいい?私が?
初めて男性から『かわいい』なんて言われた。決して間に受けたりしない。しないけど、嬉しいやら、恥ずかしいやらで、何も言えずにすみれは、あわあわと口を動かしていた。
「きみ、かわいいよ。
食べてしまいたいくらいだ」
壁ドンされた状態で、更に顔を近づけてきた雷馬。
「た、食べっ……しゃ、社長
離れてください!」
雷馬の顔を遠ざけるために、雷馬の顔を掌で押した。
押したが、顔を押した指の間から見えた雷馬の漆黒の瞳を見たら、だんだん力が抜けていくのがわかった。
それからの記憶は、曖昧になっている。
とにかく、すみれは雷馬に嘘みたいなクサイセリフを囁かれ、すっかりポーっと魂をぬかれている間に、話は雷馬にうまくまとめられていたようだ。
……ようだ。と人ごとのように、すみれが話すのには理由がある。
何故なら、その時の会話をすみれは全く記憶していないからだ。
だから、会社を出てすぐに黒塗りの高級車が目の前に停まった時も妙な威圧感しか感じなかった。
高級車から出てきた黒服の中年男性に『お迎えにあがりました』と言われても『人違いです』と丁重に断ったのだ。
ところが中年男性が胸ポケットから三つ折りにした紙を取り出し、
『契約書
本日から犬飼 雷馬の専属秘書として働く』
と書いてあり、拇印までおしてある書類を見せられた。
そういえば、昼にそんな話になったような気がするなぁと、うろ覚えだがなんとなく思い出したすみれ。
もう一度、雷馬に専属秘書の話は事実かどうか確認するために、仕方なく、すみれは車に乗り込んだのだった。
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