影孤ノ夜

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 閉ざされたドアの、紙一枚分の隙間をすり抜けて事務所に入った。窓際の机の夜伏は私に目もくれず、帳簿を乱暴に閉じた。 「千蔭か」 「夜伏、こんにちは。仕事中すまない」 「まったく、人間どもが我々に関心も持たぬせいで、毎年市の入荷品の質も売上も落ちている。今年の市は来訪者数が最低記録を下回りそうだとさっき聞いたぞ。温泉街も衰退していくばかりだし、ここもそろそろ潮時か」  ひとまず愚痴を黙って聞いてやる。 「それに今月もまた返さず逃げる奴が出るわで、頭にくるわい」  夜伏が金貸しなので、私は訪ねたのだ。  彼の身体はとても小さく、人間の顔に、ブルドッグとやらの身体をしている。なんか愛嬌があるなとつくづく思う。今日は渋い紺色の甚平姿で、よく似合っていた。 「金が好きならちゃんと返せ。金に敬意を持て」  夜伏は自分の、金貸しという立場を誇っていると、以前話していた。この温泉街は市の開催地だから、金は重要で、皆の心を占めてもいるらしい。  そんなに時間を譲れなかったので、木目の床に伸びる私は早々に切り出した。 「夜伏、私に金を貸してほしい」 「お前が冗談を言うとはな」 「冗談ではないよ」  夜伏は床を向いて大きな口をあんぐりと開いた。 「お前が金を借りるだあ? 馬鹿を言うな。どこに返すあてがある? お前は金の必要性がないから銭一枚持ってもいない、働きもしていない。そんな奴に貸せるか」 「あてはある。人見の元でしばらく働けることになった」  私はでまかせを言った。 「ああ、あいつのところか。まあ、あそこなら確かに──」 「だから返せる。早急に欲しいものがあるので今すぐ貸してほしい」 「今すぐって……お前は知らないかもしれんが色々と手続きがいるんだぞ」  本当に知らなかったので、焦りが生じた。  私は、あの子供を買いたいのだ。  早くせねば、他の者に買われてしまう。 「そこをどうか頼む。必ず返す。だから手続きは後回しに」 「いくらだ」  私は爬虫類面の店主が言っていた金額をそのまま述べた。 「なんだその微妙な高さは」 「人間を買いたいんだ」 「人間だあ?」  しばし、夜伏はなにか黙考してるらしかった。やがて顔が、口の両端と小さな丸い双眸(そうぼう)をにっと曲げたものに変わった。 「いいだろう、ただし返せなかったら……わかってるな?」 「ああ、ありがとう!」  私は深く考えることもせず、飛びつくように礼を述べたのだった。
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