《1》傷心の夜、ケバい部下に拉致された件

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   *  部下の楠田(くすだ)と営業一課の青山(あおやま)さんが結婚するという話を耳に挟んだのは、一ヶ月ほど前だった。  楠田には他支社への転勤の話が持ち上がっていたが、どうやらそれを機に青山さんを連れて、とのことだった。しかも青山さんは妊娠しているそうで、会社は退職するらしい。いわゆる「授かり婚」だ。  こんな言い方は失礼かもしれないが、楠田が、という点は大して意外ではない。問題は青山さんだ。  入社以来、社内の男どものアイドルだった彼女は、仕事に対して非常に真摯な女性だ。他の社員のミスを補填するために夜遅くまで残る姿を何度も見かけてきたし、そんな彼女がよりによって楠田と……意外でならない。  授かり婚で退職だなんて、なんの冗談だ。  誰でもいい、冗談だと言ってくれ。嘘でいいから。  ――青山さん。ずっと好きだったのに。  ふたりが付き合っていた事実を一ヶ月前に初めて知ったという滑稽ぶりだ、誰に笑われてもなにも言えない。その手の話題には昔から疎いのだ。  そもそも、会社は仕事をする場所だ。どいつもこいつも浮足立った話題で盛り上がって、笑わせてくれる……などと、社内の人間に長く片思いしてきた俺が言うのも完全にお門違いだが。  結局、なんとかお開きになる前に、送別会兼納涼会が行われている居酒屋に到着した。  最悪だ。とても耐えられなかった。  なんだ、あの楠田のデレまくったツラは。ふざけてんのか。  良かったな? 社内のアイドルを独り占めして、しかも結婚前に孕ませて、挙句の果てに十分栄転と呼べる異動ときた。  うん、お前は今が絶頂期だ。人生バラ色、というのはまさにこういうときのための表現なんだろう。  まぁ後は落ちるだけだがな。はは、十年後が楽しみだ。  ……こんなドス黒い思考しか浮かばない俺が、あの場に居合わせること自体が間違っている。だから早々に退席させていただいた。  感情の一切を顔に出さずに済ませる自信はあったが、問題はそこではない。あのムードの中、心からお祝いできない時点でアウトだ。  一課の課長もあいにく欠席だった。それなら、なおさら俺みたいな立場の人間などいないほうが場の空気も和む。  一応顔を出して、主役のふたりに激励の声をかけて、「ほら、二次会で使えよ」と万札を置いて帰るのがこういうときの俺の役割だ。今夜のミッションは達成したに等しい。  家でひとりで飲もう。  先週末に買っておいた某プライベートブランドの発泡酒を冷蔵庫で冷やしてある。ああ、安酒が俺の帰りを待っている。  何人かの女性社員――特に一課の子たちが『えー、桐生(きりゅう)課長、もう帰っちゃうんですか?』とか『来たばっかりなのに~』とか不服そうな声をあげていたが、困ったように微笑み返すに留めた。  その手の顔は、ときに言葉以上にものを言う。不満げに口を尖らせていた彼女たちは、俺の顔を見るなり申し訳なさそうに顔を伏せ、以降はなにも追及してこなかった。  うん、えらいぞ皆。  空気を、というか俺の内心を読んでくれてありがとう。あ、当然「帰りたい」っていう内心のほうの話だぞ。  お開きの時間が近づく前に、そっと、かつ足早に店を出た。  帰ろう。一刻も早く帰ろう。早く自室の冷蔵庫を開けたい。冷蔵庫のドアを開閉したときのひんやりした空気を味わいつつ安ビールを飲んでさめざめと泣きたい、そうやってなにもかも忘れてとっとと寝るんだ。明日も仕事なんだから。  ……などと枯れ果てた思考を巡らせていた脳味噌が、不意にくらりと揺れた。  後ろからぐっと腕を引かれたせいだ。酒を一滴も飲んでいないにもかかわらず、酩酊感に似た眩暈を感じ、堪らず空いた手で額を押さえる。
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