■ 土曜日 3 ■

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 棟梁とその部下たちが仕事を始めるのをしばらく見てから、瑞輝はメタリックブルーの自転車に乗った。あちこち流血したのでスポーツセンターで手当してもらったらと棟梁に言われたが、病院に行くからと断った。泰造に相談したいことがあった。  スポーツセンターを出て角を曲がり、路地に自転車を止めると、瑞輝は後ろを振り返った。気配を感じたのだが、誰もいない。気を取り直して瑞輝は自転車のペダルに足を置いた。そしてハンドルを切る。  ああ、着替えを持ってくりゃ良かったと思った。本当はすぐに帰るつもりだった。お社にあんな幻を見せつけられなかったら。  あれが『那維之神』の礼ってことか。あの洞窟神事の後の夢と似てたのは、偶然じゃないってわけか? 地面が割れて落ちて行くとき、地表からチラリと顔が見えたあの顔は、スポーツセンターでゴルフクラブで殴られた時に見た顔だった。  だから泰造に聞くんだ。そうだ。困った時の泰造だ。  瑞輝は田畑に囲まれた田舎の道を自転車でゆっくりと走り出す。  そして後ろをまた振り返った。何だその敵意あるスピードは。白い車のフロントライトが、まるでつり上がった鬼の目みたいに見える。  もう避けられないって。瑞輝は必死で漕いでスピードを上げようとした。車から逃げ切れるとは思わなかったが、ちょっと先に見えるあぜ道へなら滑り込めるかもしれない。  しかし車はグイグイ追いついてきて、銀色のバンパーが瑞輝のマウンテンバイクのタイヤをちょいと跳ねた。マウンテンバイクは横へスライドし、瑞輝は重心を取り戻そうと体を傾けた。スピードを出していると、タイヤのグリップ力は増す。バイクレースのビデオを見ながら物理教師が言っていた。そんなことを今思い出す。  でもそれは衝撃が加えられない場合だ。  二度目に後輪が車に当たって跳ねた。前輪がアスファルトから脇の用水路へと突っ込む。 「おわっ」前輪が落ち、自転車が縦にひっくり返る。目の前には稲刈り直前の重そうな米の穂が見えた。田んぼは水がすっかりなくなって固い土になっている。スローモーションどころかストップモーションで稲穂が見えた。そして辛うじて頭だけは守りながら田んぼに突っ込む。背中から着地し、痛いと思ったのもつかの間、ガツンと自転車が上から落ちて来た。ハンドルが胸に当たる。息が止まった。  ザワザワと稲穂が風に揺れる音がしている。稲穂の向こうに水色の空が見えた。  シャリシャリと自転車の車輪が空回りしている音も聞こえた。  雨が降って来た。土が湿ってどんどん水が溢れていく。瑞輝の体はどんどん沈んでいく。口の中にも泥が入って来て息が詰まる。灰色の雲がどんどん遠くなり、体はさらに深く落ちていく。土が上から降って来て、瑞輝が沈んだ穴がふさがれていく。空が見えなくなる。暗闇がやってきて、全く何も見えなくなっていく。このまま沈んじゃうのもいいかなと思う。  だってよぉ、どうせ油断してたとかって責められるだけだ。ああそうだよ、油断してたよ。っていうか俺は油断してないときなんてないんだよ。何に集中したらいいのかわっかんねぇんだからよ。遠くの蝉の声とか聞いてたよ、悪かったな。トンボが三匹飛んでたのも見てたよ。用水路に沈んでた石ころも見えた。飛行機雲が車の後ろにできてたのも見たよ。雨雲を運ぶ風の流れも感じたよ。稲刈りするなら明日だなって思ったよ。隣の田は今日稲刈りが終わったんだなとかも思ってた。クローバーが畦に引っ付いてるのも見た。  頭にガツンと衝撃を受けて目を開く。パアッと金色の世界が開ける。何だこりゃ。扇形の葉っぱが舞い落ちる。  めちゃくちゃきれいだ。瑞輝はその世界に見とれて思った。イチョウの根元にいる。黄金色に染まった葉が、真っ青な空から無数に落ちて来る。  落ちて来た葉が自分の目の前に積もり、視界を遮っていく。また暗くなる。  わかった、もうこれが見られないって言うんだな。沈んでっちゃうと、戻れないぞって言ってんだな。  瑞輝。晋太郎が上の方で探している声がする。  探してくれんだな、一応。瑞輝はふっと笑った。
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