■ 月曜日 3 ■

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 数学教師に嫌味を言われ、瑞輝は疲れて学校を出た。伊藤に電話をかけ、夜の会議は駅でピックアップしてくれるように頼む。伊藤は渋ったが、瑞輝がお願いしますと低姿勢で頼むとようやく了承してくれた。約束の六時まで一時間強。  瑞輝は泰造に言われたように、晋太郎の忠告を無視することにする。  鶏のうるさい家、というのは知っていても、それがどこにあるかは瑞輝も知らなかった。金剛寺の前の公園で会ったんだから、その近くだろうと瑞輝は思った。金剛寺で聞くとすぐにわかった。桜木の嫁の理沙子がどうして聞くのかと知りたがったが、落とし物を拾ったと言うと納得してくれた。彼女のいいところは、疑い深くないところだ。怪我したって聞いたけどと理沙子は言外に瑞輝をねぎらうように言った。 「大丈夫。骨は三日でくっつく」瑞輝は答えた。 「骨の問題じゃなくて」彼女は困ったように笑った。「瑞輝君はもっと人に優しくしてもらってもいいのに。たくさんの人のためにいいことをしてるのに、意地悪されてばっかりでかわいそう」  かわいそう、なんて言われると困る。瑞輝は返答に困って理沙子を見た。 「私は瑞輝君の味方だからね」  理沙子が力強く言って、瑞輝は笑った。「ありがと」  金剛寺を出て今まで通った事がない細い路地を抜け、聞いた通りに行くと小さな畑を持つ一軒家に続く道に出た。小さな畑は最近まで手が入っていたのだろうが、今ではもう荒れ放題で、野菜の名残らしきものと雑草が入り乱れていた。蓋をされた井戸もあり、瑞輝はそうっとその脇の道を歩いた。  掃き出し窓の縁に人影があったので「すみません」と声をかける。  老人は顔を上げて声の方に顔を向けた。そして聞いていたラジオのボリュームを下げる。 「こんにちは」瑞輝は数メートル離れたところから声をかけた。これだけ離れていたらいくら長いゴルフクラブを持っていても届かないだろう。 「誰だ」老人は怪訝そうに言った。「新聞ならいらん」  瑞輝は考えた。「あの…黒岩神社の」と言ったところで、老人は顔をもう一度上げた。 「龍憑きの坊主か」  イチョウの下で言われたのと同じ口調だった。 「そのうち来ると思っとった」老人は静かに言った。「思い出したか」  瑞輝はススキの痩せた穂が二人の間にあるのを見た。薄暗くなってきた庭では、チチチと小さな虫の声がする。 「俺はあのとき、池本さんに気がつかなかった。俺は野口さんに殴られる直前に見ただけで、顔もハッキリわかんなかった」  老人は手を億劫そうに伸ばし、ラジオを止めた。 「前に会った時に、何も言わんから、結局見えてなかったのかと思った。やっぱり見えてなかったんじゃな」 「見えなかった。暗かったし。でも…気配みたいなのは感じてた。それが前に会った時の感じと違ってたから、よくわかんなかった。昨日、あそこに社の修理前の神事で行ったら思い出した」 「そうか」老人は瑞輝の声の方を向いて言った。「それで何の用だ。警察に言わないから何かをよこせって言いに来たのか? 金ならない」  瑞輝はぽつりとまた雨粒が落ちて来たのを感じた。 「あの後、何が起きたのか聞きたくて」  老人はフンと鼻で笑った。「聞いてどうする」 「どうってこともないけど、俺がやったって言う人がいるから、俺じゃないって証明したい」 「おまえさんは倒れて寝てただけだ。それは自分が一番よくわかってるだろう」 「他の人の証言がほしいんだ」 「警察の仕事だ」 「そうなんだけど。警察は俺の無実なんか証明してくれないよ。だから自分で」 「だから私に野口を殴ったんだろうと言いに来たのか?」  瑞輝は口をつぐんだ。後ろを振り返って逃げてしまいたい気持ちになる。でもここはグッと耐える。このまま何でも自分のせいにされていては、いくらユア父が愛想良くてもユアと二度と口を利いてくれるなと言われる日が近い気がする。それは辛い。 「目の見えない年寄りになら逆上されたところで取り押さえられる。そんなところか」老人は胸のポケットから煙草を出して火をつけた。灰皿はラジオのそばに置いてある。「野口とは話をしにいった。殺しにいったわけではない」 「じゃぁ誰が…」 「野口が次の市長候補だったのは知ってるか?」  瑞輝は眉を寄せた。「知らない」 「出馬要請を受けてた。今の市長からのお墨付きだ。出れば勝つと言われていた。そして今の市長の政治をそのまま引き継ぐだろうとな。私と野口は年は少し違うが、役人だった頃からの古いつきあいだ。あいつが今の開発政治を引き継ぐと聞いて、どうか考え直してくれと何度か頼んで来た。借金をして開発したところで、市にはほとんど還元されていない。開発に関わった企業はこの市に拠点を置くわけでもなく、多少の雇用が生まれたといっても、弊害の方が多いような開発ばかりに見える。この町は自然と調和して生きてきた町だ。龍憑きの坊主がいるなんて話も、人々の心に自然への畏敬の念があるからこそ信じられていることであって、自然をないがしろにしている心には何も響かない。実際、開発業者は土地の文化を無視して計画を立てている」  瑞輝は老人の話を頭の中でもう一度考えた。 「野口はこの土地で育った人間だ。わかってくれると思っていた。それで話をしようと呼び出した」 「そしたら俺がいた?」 「そうだ。私も最初は坊主がいるとはわからなかった。野口以外にも人がいると思っただけだ。そして争っているような声がした。音もした。状況もわからないのに、そこに入るのは危険だと察して、私は退がった。おそらくそこで坊主が野口に殴られたんだろう。倒れる音はした。その後、野口がうめいて倒れたみたいだった」 「え、じゃぁ俺のすぐ後に野口さん、倒れちゃったの?」 「そうだな」 「他に誰かいた?」 「いや、人の気配はなかった」 「じゃぁ、結局野口さんが誰にやられたのかは、わからないんだ」  老人は煙草の煙を吐いた。「わからんな。神様のバチが当たったんだろう」 「神様が犯人ですって警察が信じるわけない」  老人はかすかに笑みを浮かべた。「探偵ごっこか?」  瑞輝は目を伏せた。「俺が疑われてると、俺の事を良くしてくれる人に迷惑がかかるんだ。俺だけに嫌がらせしてる間はいいけど、そのうち俺じゃないところにいく。それが怖い」  老人はぷかりと煙を吐いた。「誰か具体的に心配があるのか?」  瑞輝は下を向いた。ユアのことを思い出すが、首を振る。「今は、まだ」 「心配があるなら、素直に警察に言うことだ」 「警察は嫌いだ」瑞輝は顔をしかめた。  老人はそれについては何も言わなかった。煙がゆっくりと空に上がって消えていく。  瑞輝は息をついた。 「ありがとうございました。俺はこれで」 「坊主、女の子の殺害容疑もかかってるらしいな」老人がからかうように言った。瑞輝は帰りかけていたのを足を止めて振り返った。 「死んでない」  老人は一瞬煙を吐くのを忘れたようだった。一拍置いて、煙が吐かれる。 「死んでない? 何を知ってる?」 「知らない」 「じゃぁどうして死んでないとわかる?」  瑞輝は答えに困った。理屈で答えられない。あの人形についてた風がそんな感じだったからなんて言えるわけもない。「龍憑きだから」  そう言うと老人は不機嫌そうな顔をさらにしわを深くした。 「警察に言ったか?」 「言わないよ。信じないし、もし信じたとしても、なんでわかる、おまえが監禁してるんだろうとか変に取られるだけだ。嫌だ」 「龍憑きだからだ、って言ってやれ」老人が笑ったので、瑞輝は少し驚いた。 「そんなの…」 「私は坊主のことは嫌いじゃない。もういないが妻が坊主を気に入ってた。アレはイチョウの木が好きでな。坊主の髪も目も、イチョウの神様だって勝手に喜んでた。龍憑きを忌み嫌うっていうのは、みんな心のどこかで龍憑きを信じている証拠だろう。古い考えかもしれないし、坊主にとっては迷惑だろうが、龍なんて迷信を受け入れる土壌があるのは貴重だ。ある意味、それがこの町を守って来たとも言える」  瑞輝は何とも言えずに老人を見た。小さな雨粒がポツポツと顔や体に当たる。 「降って来たか?」老人が言った。「傘を持っていけ」  瑞輝は首を振った。そして彼には見えないんだと気づいて「いらない」と言い直す。 「気をつけて帰れ」 「失礼します」と瑞輝は見えないのはわかっていて、頭を下げた。  老人は煙草を灰皿に押し付けて消し、立ち上がって家の中に戻って行った。
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