■ 火曜日 3 ■

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「嫌ならやめておけ」  晋太郎が言って、瑞輝は目を上げた。唇がカラカラで顔がぐちゃぐちゃだった。晋太郎は土から出て来たような姿はしていなかった。いつものシャツにジーンズだ。 「大丈夫か?」  晋太郎は瑞輝を見た。義弟は腕で顔を拭う。肘で目を覆い、嗚咽を漏らす。 「どうした?」  瑞輝は首を振った。涙と鼻水を手や腕、シャツの裾で拭くので、晋太郎はタオルを持って来てやった。瑞輝はそれで顔を拭くと目を閉じ、それから大きく息をついた。 「大丈夫か?」晋太郎は落ち着いてから言った。  瑞輝はうなずく。「夢を見た」 「だろうな」  晋太郎が静かに言って、瑞輝はタオルをもう一度顔に当てた。体が震える。あんなのは嫌だ。  晋太郎は瑞輝が落ち着くのを待った。子どもの頃と同じだなと思う。瑞輝が小さかった頃、怖い夢を見たと言って父や母のところへよく来ていた。父が死んでからは、懐いていた母にも言わなくなった。母はそれを悲しんでいたが、晋太郎は夜中に起こされないのはいいと思った。瑞輝が夢を見なくなったのだろうとは晋太郎も思わなかった。ただ大きくなって夢を夢と認識できるようになったのだと思った。しかしたまに瑞輝は布団の上で小さく丸まっていることがあり、よく眠れない日があるようではあった。  中学生ぐらいになって、瑞輝が言った。自分が見ていたのは夢ではない気がする、と。現実を見ていたんだと思う。どこかで起こった災害や、その前兆みたいなもの。大きな自然変動はいつもビリビリと感じるから、寝ている間にそれを感じて夢のように見ただけだと思う。そう言って瑞輝は晋太郎が見ている新聞の一面記事を見た。そこには大きな河川災害の様子が載っていて、瑞輝は最終的な死者の数を「もっと増えるよ」とほぼ正確に言い当てた。その頃は、わかっても意味がないと嘆いていたが、次第に夢の話も嘆きも言わなくなり、新聞やテレビも見ようとしなくなった。自分が知り得たことを口にしなくなり、ただ眺めているだけになった。ただ辛いとか苦しいということをよく口にした。晋太郎はそれを深く受け取らなかった。もうそんな泣き言も言わなくなったが、その当時に、ちゃんと正面から受け取ってやれば良かったと晋太郎は今になって思った。 「すげぇ悪い夢を見た」  瑞輝は政子が煎れてくれた緑茶を少し顔をしかめて飲んだ後に言った。  夕方になっている。台風がいよいよ近づいているようだった。雨は一旦止んでまた降り出し、風も強くなったり弱くなったりした。  三人はダイニングのテーブルについていて、瑞輝はいつもの自分の席で、いつものように少し崩れた座り方をしていた。晋太郎はそれを注意しようかどうか迷って、黙認することにした。 「野口さんのことは聞いたか? 意識が戻ったらしい」  晋太郎は元気を出させてやろうと思って言った。唯一のいいニュースだ。 「あぁ、そうみたいだな。で、俺にやられたって言ってんのか?」  瑞輝は喜ばなかった。晋太郎と政子は顔を見合わせて苦笑いした。 「不審者だと思っておまえを殴ったら、感電したみたいになって倒れたって言ってるそうだ。おまえがスタンガンか何かを向けたんじゃないかって」  ふんと瑞輝は鼻で笑った。「俺、逮捕されるのか?」 「さぁな。今までもおまえに近づいて誰かが不幸な目に遭ったことは無数にあるが、おまえを逮捕した例はないだろ。この町にいる人間はみんな、龍憑きに近づく方が悪いって知ってる」 「へぇ」  瑞輝は感慨もなく答えた。本当に関心がないようだ。晋太郎はまた苦笑いした。 「で、夢は酷かったのか?」晋太郎は聞いた。  瑞輝は晋太郎と政子を見返した。 「みんながいなくなるのは嫌だ」  二人はきょとんとした。「いなくならないよ」政子が言う。  瑞輝はそれを聞いてしばらくたってからうなずいた。「だよな」 「そうよ。あんたがいるもの」政子はにっこりと笑った。 「俺は何も」瑞輝は首をすくめる。それから晋太郎を見た。「揺れてるんだ、晋太郎」  晋太郎と政子はさっと表情を固くする。 「らしいな。伊藤さんに聞いた」晋太郎は静かに言った。 「地震が来るって言っても誰も信じないよね」  瑞輝は緑茶を少しすすった。  晋太郎は瑞輝の伏せた睫毛を見た。こうして黙っていると思慮深そうに見えるのになと思う。 「そうだな、おまえが言っても信じないだろう。例えばすごく偉い大学の地震学の先生が言ったら、もしかしたらと思うかもしれない。この国の人間は騙され続けてきたから、疑い深い」  瑞輝は目を上げ、小さく笑った。「それって政治批判?」  晋太郎は意外そうに瑞輝を見てから笑う。「まぁな」 「何を言ってるの、二人とも」政子は呆れるように言った。
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