■ 秋分 ■

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■ 秋分 ■

 翌朝、晋太郎は瑞輝の部屋の襖を開いてくるりと無人の部屋を見回した。  そして台所に戻る。 「瑞輝がいない」  そう言うと、泰造と政子は目を丸くした。泰造は自分で確認に行ったほどだ。純は楽しそうにクスクス笑った。 「あの野郎、大人しく寝てろって言ったのに」泰造は怒って言った。 「それは無駄な言葉だな」晋太郎は外を見た。雨と風は強くなってきている。 「おまえはどうしてそんなに落ち着いてるんだ」  泰造は晋太郎を睨んだ。義理でも弟だろうが。 「体調が良くなった証拠だと思えばいい」晋太郎は泰造をねぎらうように言った。「瑞輝は放っておけばそんなに無茶はしない。期待したり、褒めたりすると、それに応えようとする。期待しないフリをするのが一番なんだ。面倒な奴で困る」  晋太郎は息をついた。  泰造はその穏やかな横顔を見て、それから笑って首を振った。晋太郎が瑞輝の気持ちがわからないと言っていたのを思い出す。入間のジイさんが死んで、突然瑞輝を任された晋太郎が戸惑いパニックになったのだ。そして小児科医の泰造に助けを求めて来た。そんなことが八年前にあったとは思えないほど、晋太郎は落ち着いている。 「おまえの四駆で下に送ってくれ。行きそうなところはわかっている」  そう言われて泰造は仕方なく立ち上がった。  カッパを着た晋太郎は、それでも横に降り込む雨を避けきれずに濡れながら山道を駐車場まで歩いた。隣の泰造も迷惑そうに靴をジュワジュワと鳴らしながら歩く。 「どうせ那維之神にもう一度話をつけに行ったんだろう。スポーツセンターに寄ってくれ」  そう晋太郎に言われて泰造はあくびをした。「寄ってくれって、俺も付き合う。今日は休診だ」  晋太郎はそう言われて少し考えた。「そうか、今日は祝日か」 「そうだ、秋分の日だ。陰陽がおよそ半分になる日だ。瑞輝が本来は一番安定する時期だよな」  泰造に言われて、晋太郎は首をひねった。 「そうか?」 「そうだ。知らなかったのか?」  泰造はまたいつものようにニヤリと笑う。晋太郎は少しムッとした。なぜだか知らないが、泰造の方が瑞輝のことをよく知っている気がする。兄として晋太郎も毎日瑞輝を見ているというのに。泰造なんてただの遊び相手じゃないか。ろくでもないことを教える、ただのオッサンだ。瑞輝が奴を慕う理由がわからない。 「春分の頃も、秋分の頃もあいつは安定する。太陽のある場所を自分で知覚しているみたいに正確だ。ついでに言うと、月の位置も知覚しているみたいだ。あいつがフラフラ出歩いても道に迷わないのは、そのせいもあるだろう」 「人間コンパスか、あいつは」晋太郎は笑った。東西南北のことなど何も覚えてないくせに。 「那維之神は瑞輝の話を聞くかな」泰造はつぶやいた。 「瑞輝は神と会話するわけじゃない」晋太郎は伊藤氏と話したことを思い出し、小さく唇を噛んだ。「あいつは贄だそうだ。神が求めた代償だ」  泰造は晋太郎を見た。「ニエって何だ」 「贄だよ。生け贄のニエ。あいつが奉納しているのは、演武や神餞じゃない。命を削って差し出しているんだそうだ。あいつの場合、自然から補填がきくから死なないらしい。普通なら死ぬかもしれないことを、平気でやってると聞いた」  泰造は眉を寄せた。「何言ってるのかよくわからんが、瑞輝は危ない目に遭ってるって意味か?」 「危ないとも言いきれない。瑞輝が今まで通り、自然と仲良しである限りは永遠に補填がきき、瑞輝はどんな神事にも立ち合える。首をちょん切られたら、さすがにおしまいだと思うが、ある意味、瑞輝は今の人間という形そのものが仮の姿なのかもしれないと、昨日考えてた」  泰造は雨もやの立ちこめる山道を見た。木の根元に小さなキノコが見える。甲高い声で鳥が鳴いて頭上を通過した。台風はいよいよ近づいて来ている。 「瑞輝の本来の姿は人間ではないのかもしれない」泰造は自分で言ってうなずいた。「俺もたまにそう思うことがある。あいつは時々、風に吹かれて消えてしまいそうに見えることがあるもんな。足元から花びらになって散って消えるんじゃないかと思うことがある」 「ロマンチストだな。そこまでは思わないが、いつでも人間の体を捨てそうで怖いんだ」晋太郎は苦笑いした。 「確かにな」  泰造も一緒に笑った。
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