■ 秋分 ■

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 小学校脇の池に行くと、台風の雨で水量がいつもよりぐっと上がっていた。  警戒に来ている地元の消防団の団員が瑞輝を見て、危ないから帰れと言った。  瑞輝は土嚢を積んでいる消防団を見て、それからちょっと首をひねった。 「この池より、向こうの用水路の脇に積んだ方がいいよ。この池は溢れないから」  消防団の三人は瑞輝を見て怖い顔をした。 「子どもは黙って…黒岩のガキか」リーダーらしい一人が雨に負けないように怒鳴るように言った。数歩近づいて来た彼を見て、瑞輝も驚いた。鈴木建設の作業員だった。下水道で瑞輝を殴りつけて来たアイツだ。  瑞輝は殴られるのかと思って、一歩下がった。気づかれた途端に殴られるっていうのは、よくある。 「なんでこの池が溢れないってわかる?」  彼が言って、瑞輝は戸惑った。下手なことを言うと、きっとまた殴られる。しかし、リーダーはどうやら今日は瑞輝の言葉を聞く心づもりがあるようだった。ケンカ腰ではないことはわかる。 「この池は地下に道があるから。用水路はコンクリートで固めてて、水の逃げ場がない。それに道路との境目もハッキリしてないから、これだけ雨が強くて水が路面まで溢れたら見分けがつかなくなって、落ちたりする。子どもとか老人は一発だ」 「この池の地下に道なんてない」リーダーはじっと瑞輝を見た。  瑞輝は困って彼を見た。 「じゃぁ…積めば」  瑞輝はそう言って引いた。仕方ない。  池の外側を大回りに歩いて、消防団員がいない場所へ行く。柵がしてあるが、気にせず登る。 「こらぁ」と向こうから怒鳴り声がしたが、今から走って来ても遅い。瑞輝は池の淵にある石柱を見た。『大鎌之淵』という文字がうっすら見える。  でっかいカマキリがいたんだ。瑞輝は溺れて助かった後にじいちゃんに言った。水龍って言うけどあれはでっかいカマキリだったよ。じいちゃんはそうだなと言っていた。  瑞輝は水面に右手をつけた。水が跳ねながら腕を伝ってくる。  なぁ、こっち来いよと言ってるように。瑞輝はクラっとめまいを感じて、それに身を委ねてしまう。  水に吸い込まれ、水が自分の中にしみ込んでくるのがわかる。溶けてしまいそうだ。  ああ、そうだったなと瑞輝は思い出す。十年前、この池に落ちた時もそうだった。友達を助けに行こうとしたのに、友達が見えなくなって、自分が水になってしまう感覚に襲われた。自分がどんどんなくなって、消えてしまった。その時に道を見た。この池の下には水が染み込みやすい地層があり、そこに吸い込まれて行く。すると土と水が混じり合って、また瑞輝は意識を取り戻したのだった。水流が逆転し、大きなうねりが生まれて瑞輝は水面へと突き上げられた。呼吸が止まり、冬で水も冷たかった。瑞輝は仮死状態になっていたが、その後無事に生き返った。友達が命を落とし、こいつがその子の命を食ったんだと責められたものだ。  ガシッと腕を掴まれて、瑞輝は目を開いた。 「大丈夫か」消防団のリーダーの顔があった。瑞輝は息をついてうなずいた。池の柵に背中をもたれかけて座っていた。右手からは血が出ている。そして池を見ると、中央に渦が発生していた。 「でっかい魚に食われたのか?」リーダーは不思議そうに瑞輝を見た。「手を池につっこんだまま倒れてた。引き上げたらこれだ」  瑞輝は右手のひらをペロリと舐めた。池の渦が次第に消えて行く。後は雨が打つ小さな波紋ばかり。  血が欲しかったのか。 「大丈夫です」瑞輝は柵を支えに立ち上がった。「やっとわかった」 「何が?」リーダーは怪訝そうにする。 「いや、こっちの話」瑞輝は柵の脇に咳き込んで体を屈めた。胃の中の水を吐く。 「大丈夫か?」ますます心配される。  瑞輝はうなずいた。吐き気が治まり、瑞輝は池から離れた。消防団のリーダーは、用水路にも土嚢を積むと瑞輝に言った。 「好きにすれば」  と瑞輝は三人を見た。残りの二人がムッとした顔をしたが、リーダーはかかってこなかった。 「気をつけて帰れよ」と彼が言って、瑞輝は答えずに南へ向かった。赤い鳥だ。  しかし自分自身が弱ってるところに、四カ所にも血をやっていいんだろうかと瑞輝は思った。今の水龍だけでも、たぶんけっこう取られた気がする。体がだるい。  あと三カ所か。俺、大丈夫かな。  瑞輝は髪の水気を飛ばすようにかき混ぜた。服はべっとりと肌に張り付いている。絞っても無駄だから絞らない。このまま濡れて行くのが一番だ。  俺の血が雨でできてるんなら、いくらでも補充が利くんだけどなぁ。瑞輝は空を見て苦笑いした。
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