■ 秋分 ■

5/8
前へ
/165ページ
次へ
 喫茶ポルカと、瑞輝の中学時代の友人、芦田翼の家の間ぐらいに、昔の一里塚がある。そこにはモチの木が数本植わっていて、秋から冬になると赤い小さな実をたくさんつける。これを目当てに鳥がよくやってくる。  瑞輝はたまにここの鳥を見に来た。特に意味があって来ていたわけではない。人間を見ているよりは虫や鳥を見ているほうが好きだというだけだ。人間は言葉を話すから面倒くさい。言葉の通じない相手といる方が楽だ。  今日は風で木が全部同じ方向に斜めになっていた。瑞輝はその木と同じように首を傾けた。耳に雨水が入るのですぐにやめた。  すぐそばにビニール傘が折れ曲がって落ちていた。そこにスーパーの袋などが溜まっている。  本来なら朝日がキラキラ差し込んでくる時間帯だった。しかし今日の空はどんよりした厚い雲で覆われている。  鳥。瑞輝は右手を頭の上に上げた。おーい、鳥、来い。俺の血がいるなら持っていってくれ。 「おーい」後ろから声がかかり、瑞輝は振り返った。そして手を下ろす。向こうが手を挙げて振っているからだ。  ヘルメットを被った黒い分厚そうなかっぱを着た男二人が近づいてくる。瑞輝はその黒いかっぱに蛍光の黄色でPOLICEと書いてあるのを見てため息をついた。警察か。 「何をしてる?」伊瀬谷は上から下までずぶ濡れの瑞輝を見る。「ゴミの家を見に来たのか?」と少し小声になって言う。 「伊瀬谷さん、お知り合いですか?」若い方の警官が言った。そして彼は瑞輝を見て、あっと小さな声を上げた。誰だか気づいたらしい。  瑞輝は自分の額に手を当て、雨と髪から落ちてくる水を防いだ。 「俺はこの子を家に送るから、三班に合流してくれ」伊瀬谷は目線は瑞輝に据え付けたまま、若い方に言った。 「はい」若い警官はしっかりと返事をした。 「戻ったら連絡するから」伊瀬谷は言って、若い方を遠ざけた。  瑞輝は若い警官が後ろを気にしつつも、走って去って行くのを見た。警察ってところも上下関係が厳しいんだろうなと思う。俺んちと似てる。 「で、何をしてた?」伊瀬谷はどっしり立ったまま、瑞輝をじっと見た。きっとどんな暴風雨でも倒れそうにないだろうと思わせる。 「バードウォッチング」瑞輝は小さく笑った。  バコンと濡れた頭を叩かれるとは思わなかったので驚いた。 「そうやって台風で遊んでる奴が怪我をするんだ。これから雨も風も強くなる。早いところ、山に戻らないと帰れなくなるぞ」  伊瀬谷は本気で怒っていた。瑞輝は息をついた。そして伊瀬谷を見る。 「帰らなくていい」  今度は平手打ちされそうになったので、瑞輝はそれを避けた。伊瀬谷がムッとするのがわかる。 「違う、理由がある」瑞輝は伊瀬谷に本気でかかってこられたら困ると思って慌てて言った。両手を伊瀬谷の方に出し、そして後ろに一歩下がり、水たまりに足を踏み入れた。その足元が崩れてカクンと膝が折れる。うわぁとバランスを取ろうとしたら、視界を覆い尽くす赤い翼が見えた。指先に羽の一つが当たり、ハラリと手の中に入る。そしてそのまま手の中に刺さる。痛ぇ。  大きな翼にあおがれて瑞輝は後ろに倒れた。  伊瀬谷は驚いて瑞輝を揺り動かした。しかし瑞輝は動かない。 「おい、どうした」  伊瀬谷は瑞輝の脈を見た。脈はある。息を確認する。息もある。意識がないだけだ。そしてドクドクと手のひらから肘にかけて流血しているだけ。既に土や雨で汚れきっている彼の緑っぽいシャツが茶色と赤い血に染まっている。  無線で助けを呼ぼうとしたとき、瑞輝が手を伸ばした。 「大丈夫だから」  瑞輝は目を開き、辛うじて聞き取れる声で言った。 「大丈夫そうには見えん」伊瀬谷は渋い顔で答える。  瑞輝は何とか体を反転させる。またゲホゲホと咳き込む。水たまりが赤く染まってんのは俺の血みたいだ。 「大丈夫なんだ」たぶん。瑞輝は座り込んだまま前に回り込んできた伊瀬谷を見た。 「説明をしてくれ」伊瀬谷は落ち着いた声で言った。ヘルメットを被っているが、関係なく雨は吹き込んでくる。むしろこんな横殴りの雨では、何もしていない瑞輝の方がまとものような気がしてくる。 「説明?」瑞輝は肩で息をした。「聞いてくれんの?」と小さく笑う。  伊瀬谷は黙って瑞輝を見る。瑞輝が顔を向けて伊瀬谷を見返した。何も言わないことを不審に思ったようだ。 「聞こう」伊瀬谷は雨に負けないように言った。「でもその前に手当をしないと」 「手当はいらない。明日には治る」 「馬鹿なことを。とにかく雨宿りが出来る場所へ移動しよう」 「嫌だ」瑞輝は首を振った。「次に行かないと」 「次ってどこへ」  瑞輝は少し考えた。「聞く?」  伊瀬谷は今度は覚悟を決めて力強くうなずいた。「聞こう」 「そんなに根性いる話でもないよ」瑞輝は笑った。「ほら」瑞輝は右手を伊瀬谷に見せた。「血は止まった」  伊瀬谷はよくわからなかったが、雨が瑞輝の手を洗い流していくのを見てうなずいた。確かに赤くはない。  瑞輝はポケットの中の紙箱を取り出した、もう湿って破れている。そこからキャラメルを一つ出し、一里塚の前に置く。 「それには何か意味が?」伊瀬谷が聞く。 「別に」瑞輝は空を見上げた。伊瀬谷も見上げるが灰色の雲が雨を降らせているだけ。ビュウビュウという風がうなる。  瑞輝は目を閉じ、それから目を開いた。また揺れてる。  早く行かなくちゃ。次は西の猫…じゃない。虎だ。
/165ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加