■ 秋分 ■

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「顔色が悪い」伊瀬谷は瑞輝に言った。「何をしたいのかわからないが、これ以上は危険すぎる。確か金剛寺には君が通っている道場があるはずだ。台風が通り過ぎるまで休ませてもらいなさい」  金剛寺が見えて来ていた。瑞輝は確かにちょっとマズいなと思っていた。雨と風で体温が奪われ、その上、龍血を失っていることで、大地に寝そべったところで簡単にチャージができそうにない。ここは火の力がいるのかもしれない。でもそれは最後でいいだろうとも思った。金剛寺のすぐそばの公園に白猫はいる。ここが終われば、あとは北の亀だけだ。もうちょっとじゃないか。きっとあと三十分もかからずに全ては終わる。それが効果がなければ、それはそれで仕方ない。自分は頑張ったと思うし、できるだけのことはしたと思える。でもここで休み、その間に大きな揺れがきたらどうする。俺は一秒でも休んだことを悔やむだろう。  走れメロスみたいだ。瑞輝は思った。俺は友達のためになんて走らないが、ユアのためと思えば頑張れる。シフォンケーキのためだと思えばなおさらだ。 「嫌だ」瑞輝は伊瀬谷を見た。 「では力づくでも連れて行く」伊瀬谷はじっと瑞輝を睨む。瑞輝は唇を噛んだ。いいだろう。じゃぁ俺も力づくでいく。  伊瀬谷は瑞輝が抵抗するのを決めたことを察したように、グッと拳を握った。そしてかかってくる。  瑞輝は山本に教わったように『恐れないこと』を心がけた。怖がるな。ちゃんとコントロールできる素地はできてる。相手が神でも人間でも同じだ。相手の力をしっかりと見極め、同じだけの量の力を出す。強すぎず、弱すぎず。そして相手がここぞと決めに来た瞬間を狙え。神事だってそうだろうと山本は言った。  言うのは簡単だろうけど。  瑞輝は伊瀬谷に服をつかまれて体を捻った。濡れた服は伊瀬谷の指によくからまってほどけない。靴も水がしみ込んでいて動きが鈍る。滑りそうになっていつもと調子が狂う。それにも増して、瑞輝は自分の指がかじかんでいることに初めて気づいた。指先の感覚が弱まっていて、思っているように動かない。  あっという間に伊瀬谷に川のようになったアスファルトの上に組み伏せられ、瑞輝は雨水を飲んだ。息を吸えば勝手に入ってくる。チクショウ、チクショウと胸の中で思ってはみたが、息が苦しくて声にならない。 「ほら、思ったより体力もないだろう」  伊瀬谷は優しく諭すように言って、瑞輝の体を引き上げた。  うるせぇ。瑞輝は油断している伊瀬谷を力一杯押すと、走って逃げた。夢の中みたいに足がもどかしく動く。下が水だから走りにくい。  瑞輝は雨が弱まって来た空を見た。台風は通過したのかもしれない。  細々した道を行くと、伊瀬谷は撒けたようだった。ざまぁみろ。伊瀬谷に地面に押し付けられた額が擦り傷になっていた。しかし思ったより疲れるもんだなと思った。  回り道をして公園に行くと、イチョウは台風の風でかなりの葉を落としていた。  瑞輝はイチョウの木を見上げ、それからその木の根元に座り込んだ。はぁはぁと息が切れる。雨なんだか汗なんだかわからないものが頭から落ちてくる。木の幹にくっつけた背中は温かくなってきた。ちょっとホッとする。  ずるりと地面になだれ込むように瑞輝は木にもたれて目を閉じた。猫よぉ。どこいったんだよ。いねぇよ。  また体が揺れて、瑞輝は飛び起きた。そして目の前の白い獣を見た。  そう来たか。瑞輝は獣が大きく口を開くのを見た。思わず腕で顔を覆ったが、きっとパクリとやられるなと思った。意識はそこでなくなった。
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