■ 日曜日 ■

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「そういう考え方をなかなかできないんだ」晋太郎は純を見た。 「これは、瑞輝君に教えてもらったの」純はニコリと笑う。「十七歳のお誕生日をお祝いしたとき、瑞輝君、いろんな人に釘を刺されて腐ってたでしょ。もっと落ち込んでるかと思ったら、ケロッとして笑ってたの。いろいろ言われても、変わるものは勝手に変わるし、変わらないものは変えようとしても変わらないって。あっちに向かって走ってて、到達しなくても、それには意味があるんだって。到達しないからって意味がないわけじゃないんだって」  相変わらず抽象的だなと晋太郎は笑う。でも奴の言いたい事はわからないでもない。 「努力はする。でも結果が思うようなものじゃなくても、瑞輝君は平気なんだよね。私たちはそう思えないから瑞輝君が悔しがってないように見えて苛立つのかな」 「苛立つね、確かに。昨日も何て言ったと思う? スポーツセンターのセンター長が亡くなったからといって世界は終わらないだって。視点がグローバルすぎて、時々、あいつを殴りたくなる」  純は笑った。そう言いながら晋太郎は瑞輝に手を挙げた事はない。純が記憶している限り、ない。昔のことは知らないけど。 「ゴールに到達しなくてもいいというのも、真実のようでいて、あいつが言い訳を言ってるだけに思えるときもある。すっぱいブドウの話みたいにね」晋太郎は苦い顔で言った。 「言い訳だとしてもいいじゃない」純は本を閉じて晋太郎を見た。猫舌なので、少し冷めたコーヒーを飲む。「瑞輝君、自分で言ってた。俺は前も後ろも見えないって。見えるのは自分が立ってる場所だけで、踏み出す一歩先も見えないけど、止まるのはつまんないからって」  晋太郎は苦笑いした。そうか。一歩先も見えないか。まいったな。そんな奴にいつ来るかわからない日に備えろってのも無理な話なのかもしれない。 「怖くないのって聞いたら、笑われたの。怖いに決まってんだろうって」  純は甘いミルクコーヒーをおいしそうに飲む。 「止まったら二度と動けなくなるぐらい怖いって。瑞輝君らしいよね」 「気楽に生きてるようにしか見えないけどな」  晋太郎は廊下の方を見た。その奥に瑞輝の部屋がある。 「面白いわ、彼は。どうしてあんなに物事を知らないで生きていられるのかわからない」  純が感心するように言って、晋太郎もそれに同意した。 「立ち止まって考える、って能力を龍に食われたんだと思うよ」  晋太郎が言うと、純はクスクスと笑った。 「そうかもね」  コーヒーを飲んだ後、晋太郎が瑞輝の部屋を覗いてみると、瑞輝は真っ暗な部屋で布団も敷かずに畳の上で寝ていた。六畳の畳がしっかり数えられるほど何もない部屋の奥の隅で、瑞輝はごろりと横になって背中を向けている。  押し入れから布団を出してやり、押し入れの下段の引き出しから畳まれた服を出す。普段の生活からは想像がつかないほど、瑞輝は身の回りの整理整頓をキッチリしている。たまに整理しすぎてモノをなくす。間違って捨ててしまうということも多い。 「瑞輝」晋太郎は義弟を揺り起こした。  瑞輝は左手に黒岩神社のご神体の欠片が入った小さなお守りを握りしめ、右腕の螺旋状の痣から血を流して倒れていた。よく見るとカッターシャツの下も、右肩から背中、そして左脇腹を通って腹まで続く痣の通りに血痕がついていた。帰って来たときはなかったのに。晋太郎は瑞輝の頬を叩いた。 「瑞輝、おい、大丈夫か?」  晋太郎が呼んでも瑞輝は目を閉じたまま反応を見せなかった。発熱していて、額に汗が粒になって浮かんでいた。  覚醒が進んでるのか? それともこれは瑞輝の体が拒否反応を示してるのか。  どうしたらいいのかわからず、晋太郎は妻の純を呼んだ。
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