■ 火曜日 ■

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 藤崎は冗談だろうと思った。エイプリルフールの予行演習でもしてるのかと。  だが、相手は本当に真剣だった。そして地元出身の教師仲間に聞くと、確かにこの地ではその迷信が深く信じられているということだった。実際に彼は小学校も本来の学区でない学校に通っていたと聞く。その元の学区に地元実力者の家があり、彼と自分の子が同じ学校にならないように教育委員会に圧力をかけたとか何とか。伊吹山は住民が入間家のみなので、比較的簡単に話はついたらしい。入間家がそれに対してどれだけ反発したかは知らないが、来るなという学校に行かせたくもなかっただろう。  同じ事が高校に上がってまで起こったというわけだ。しかし校長が強かった。入間家を話し合いに呼び出すところまでもいかなかった。この生徒が周囲を不幸にし、悪い事を招くなら、それを正しい方に導くのが教育であり、突き放す事は教育者のすることではない。校長はその一点で突き通した。龍が憑いているかどうかや、生徒の素行が悪いかどうかは論点にしなかった。  瑞輝がそれを知らないわけがなかった。彼は何かと頭の古い人間たちにいらぬ情報を聞かされており、自分にまつわるほとんどの噂を知っているはずだった。 「この桜を救う事で、他の何かが失われる。それでもやれって言う?」  瑞輝が言って、藤崎は目を丸くした。 「俺ができんのは、そういうことなんだよ。そんでも、俺は先のことなんか考えずにやっちゃったりするんだけどな」  瑞輝はひょいと立ち上がると、自分の右手を見て、ぐっとそれを握りしめた。まるで熟れすぎた果実を握ったように小指の端から赤い血が流れる。 「おまえ…」藤崎は驚いて止めようとした。流血しろとは言ってない。 「俺の心配ならいらない。これぐらいで死んだりしない。木の幹で怪我するか、自分で血を流すかってだけの話だから」  瑞輝は右手を桜の太い黒い幹に押し当てると、すぐに手を離してペロリと手のひらを舐めた。幹についた血はしみ込むように消えていく。 「放課後にこんがらがってる枝を切る。俺が勝手にやってると思われるから、先生も立ち合えよな」  瑞輝に言われて、藤崎はうなずいた。 「もちろんだ。手、大丈夫か?」 「化け物だから、大丈夫」  瑞輝は桜を見上げて答えた。 「代わりに失われたのは、おまえの血か?」藤崎は校舎へと戻り始める瑞輝を追って声をかけた。 「そんなら俺は世界平和のために献血するね」  瑞輝はつまらなさそうに言った。 「どれがどの代償かなんて気にしないほうがいい。全部自分のせいになっちゃうから。それでも何かは変わる。そこまで責任を持てって言われるのは、俺ぐらいのもんで、普通の人は忘れちゃえばいい」 「旧家のしきたりか?」藤崎は瑞輝の横顔に憂鬱そうな陰がよぎるのを見た。 「そんな感じ」  瑞輝は肩をすくめた。昼休みが終わるチャイムが鳴る。 「よくわからないけど、大変だな、おまえも」  藤崎が言うと、瑞輝はパッと顔を明るくして藤崎を振り返った。 「一杯奢ってくれよ。学食でいいから」  藤崎はその嬉しそうな顔を見て、断るのは悪い気がしてうなずいた。 「ジュースでいいのか?」 「何言ってんだよ、一杯って言ったらラーメンだろ」  瑞輝が当然という顔で言って、藤崎は笑った。いいだろう。食堂のラーメンぐらい。  瑞輝は嬉しそうに足取り軽く校舎に戻っていく。藤崎は職員室の方へ向かう廊下で生徒と別れた。
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