■ 火曜日 ■

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 泰造が言うマカロン姫の名前を瑞輝は正確に覚えていなかった。クラスメートの名前を注意して聞き耳を立てたのは、高校に入って初めてかもしれない。瑞輝は彼女が数学の時間に前回の小テストで、彼女だけが正解にたどりついた問題を前で説明してくれと教師に言われて赤面するのを見た。  彼女の名前は渡瀬と言うらしい。下の名前はわからない。女子の一人が彼女を「チョコ」と呼んでいた。  瑞輝もクラスメートに興味がないわけではない。用事があればきちんと話すし、名前も覚えている限りはきちんと呼ぶ。ただ周りが知っているほどには瑞輝が周りを知らないだけだ。何かと目立つ故に、自分が相手を知らなくても会話が成り立つ。用事が済む。そういう経験を重ねているうちに、何となくクラスメートの名前を覚える努力をしなくなってしまっただけだ。  瑞輝は金髪なので嫌でも目立つ。地元では龍憑きと言われ、いろいろ怪しい噂もある。一説では呪い殺せるとか、死を予言するとかいう話もある。厄を呼ぶともいう。それにリアリティを与えるのは、彼が神社の子だということだ。しかも親に捨てられて神社に引き取られたという。その上、その神社でよくわからない昔の武道を習っているらしい。そしてそれがまぁまぁすごいらしい。  そう聞くと誰でも警戒する。瑞輝をよく知っている地元生徒はもちろん、高校で初めて瑞輝に会った生徒だって遠巻きにするのが当然だ。触らぬ神にたたりなし。放っておけば瑞輝は物静かな害のない生徒だった。  となると、噂は本当なのか、というのを確かめたくなる者も出てくる。一年生の頃は瑞輝も何度か上級生に絡まれた。子どもの頃から毛嫌いされていた三年生に嫌がらせも受けた。瑞輝は滅多に反撃さえしなかった。追い込まれたときに、一度だけ向かい合えばそれで充分だった。柄の悪い三年生、つまりそれが山内章吾だったのだが、彼らを簡単にやりこめると後は噂が広まるのを待つだけだ。やっぱりあいつには近寄らない方がいいという共通認識ができ、瑞輝は平和を取り戻した。  二年生になったとき、瑞輝のクラスに割とヤンチャな生徒が偏ったのは偶然ではない。瑞輝という抑止力を利用したクラス編制が練られたのだ。もちろん大まかな進路希望別というのもあった。瑞輝のクラスは就職希望が半分、専門学校などへの進学希望が半分というところだった。もちろん瑞輝は就職希望である。  渡瀬チョコはクラス編制ももしかしたら高校選択さえも間違っているんじゃないかと瑞輝は思った。彼女はどう見ても賢そうだったし、この日丘北高よりは偏差値の高い南高への進学が正しかったんではないかと思う。実際、瑞輝の幼なじみの二人は南高へ進学した。  帰りのホームルームが終わった後、瑞輝は真っ直ぐに渡瀬チョコの方へ行った。  部活動へ急ぐ生徒たちや、帰宅部で暇を持て余している生徒たちでざわつく中、瑞輝は歩いていき彼女の机の前に立った。  目をまん丸にした渡瀬チョコが椅子に座ったまま瑞輝を見上げた。  小柄な子だった。そういえば印象的にはいつでも背伸びをしている絵が浮かぶ。黒板に文字を書くときも消す時も、窓を拭くときも、ボールを受け取るときも。 「何?」渡瀬チョコの代わりに、ちょっと気の強そうな瑞輝と同じぐらいの背の女子が横から割り込んで来て言った。二人はよく一緒にいる。友達なんだろう。デカイ方は知っている。隣のクラスの委員長をしている、伊瀬谷とかいう名前だ。去年は同じクラスで何度もアレしろコレしろと命令されたから覚えている。どうやら友達に柄の悪いのが近づいて来たから守らなければと思っているらしい。敵意むき出しの目が刺さる。  瑞輝はクラスの他の生徒も自分の動きを気にしているのを感じていた。チラリと視線を流すと、慌てて目線を反らす顔がいくつも見えた。 「これ」  瑞輝は持っていた本を机に置いた。渡瀬チョコが興味があるならと貸してくれたマカロンのレシピ本だ。  伊勢谷京香はキョトンとして本を見た。 「あ、マカロンはまだ作ってないの」渡瀬チョコは小さな声で言った。  瑞輝はうなずいた。「別に恐喝しに来たんじゃない」  それは横で怪訝そうに見ている京香に対して言ったのだった。 「どういうこと?」京香はポニーテールを揺らしてチョコに聞く。きっと入間君が怖がらせたんだわ、と確信する。 「マカロン…好きみたいで、私がこれを見てたら後ろから来たから」チョコは一生懸命に説明した。 「奪い取ったの?」京香が待ちきれずに聞く。そしてすかさず瑞輝を睨む。 「最後まで話を聞けよ」瑞輝は抗議した。 「違うの、京香。えっと…家で作れるのかって言うから、クラブで作ろうと思うって話をして」 「作ったらよこせって言われたのね?」 「言ってねぇよ」瑞輝は眉間にしわを寄せた。確かにいろんなものの提出期限を守らなかったりして、去年は京香にも迷惑をかけたことが何度もある。しかしここまで信用がないとは思わなかった。 「作ってるとこ見たいって言うから、それは部員じゃないと…わからないけど、でき上がったのをあげるのはいいと思うって」 「作ってるとこが見たい?」京香は瑞輝をじっと見た。「嘘でしょ」 「なんで」瑞輝は女子二人を見た。 「作ってるとこ見て何が面白いの?」京香は腰に手を当て、瑞輝に真っ直ぐ向き直った。「チョコもこんなのにからかわれて本気にするんじゃないの。入間君もこんないい子を騙す暇があったら、何か部活に入りなさいよ。チョコ、マカロンなんかあげちゃダメだよ。癖になるから」  瑞輝は京香がチョコを追い立てるようにして教室を出て行くのを見送った。  俺のマカロン。瑞輝は大きくため息をついた。
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