■ 火曜日 ■

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 実際のところ、こうやって一人で準備運動している間が一番精神統一に向いていると瑞輝は思う。座禅なんて組まされても、あんまり集中できない。動きながら自分の体を確かめていく方が、よっぽど内に入って行ける。  野口氏はどうなったんだろうと瑞輝は思った。テレビや新聞を見る時間がなくて知らない。何かあれば晋太郎が言うだろうと思うので、何も言わないところを見ると進展がないのかもしれない。  瑞輝は柔軟体操の手を止めて自分の右手を見た。手のひらの真ん中にあるバツ印の傷跡からすっと金色の煙が立ち上る。これはどうやら他の人間には見えないらしく、たまに感覚がシンクロする晋太郎も気づかない。気づいたらきっと「やめろ」と言うはずだ。龍を手のひらで遊ばせるなんてことは。瑞輝はぐっと右手を握り、龍を腕の中に戻した。そして腕から背中、腹まで続く痣が熱を帯びるのを感じる。息が苦しくなる。この前はこれで自分の中の龍が抑えきれず、痣から出血して倒れてしまった。誰にも言っていないが実のところ、何度か同じような失敗を繰り返している。すこしずつマシになってきている。この前は疲れもあって大失敗してしまい、晋太郎にバレたが「こんなことは初めてだ」と言ったら納得してくれた。  龍はチャンスがあれば俺から出て行きたいのだろうと思う。俺だって出て行ってもらいたいが、その龍気が俺の命の半分を握っているらしいから出て行けと言えない。何とかうまくやっていくしかない。  騒ぐな。瑞輝は自分の中の龍気に命じる。何とか龍気は元の奥の方の穴に押し込められる。  汗だくだった。瑞輝は柔道場に入って来た桜木を見て、額の汗を拭う。何もしてねぇのに汗だくだと疑われる。 「瑞輝、まだ体が本調子じゃないんだろう。今日は軽く流すだけにしておけ」  桜木が声をかけながら入ってくる。  瑞輝は素直にうなずいた。それは助かる。  一時間ほど桜木は稽古をつけてくれた。一番基本の、自分と相手の呼吸を合わせるというのをじっくりやったのは久しぶりだった。いつもは割とバッタンバッタンと投げ飛ばされる方が多い。瑞輝は今でも桜木をきれいに倒した事がない。練習台として倒れてくれることはあっても、本気でかかっていって勝ったことがない。瑞輝はケンカするときには相手の動きが手に取るようにわかるのに、桜木とやるときは自分の動きが悟られているのがわかった。桜木はいつも「ヘタクソ」と笑う。それが悔しいのだが、何ともならない。いつか勝ってやると心に誓っている。 「おまえの口数が少ないと気味が悪いな」  桜木が稽古の後で言った。瑞輝は顔を上げて目を丸くした。別に自分ではいつもと違うつもりでもなかったからだ。 「晋太郎君に相当絞られたのか? 野口さんの件で」  瑞輝は首を振った。「怒られてない。逆に呆れられて無視されてる」  桜木は笑みを浮かべた。「それで元気がないのか」 「いつも通りだよ。呆れて無視されんのが初めてだと思ってんのか?」  瑞輝は脇に置いていた鞄から着替えのTシャツを取って頭から被る。それからペットボトルの水をゴクゴクと飲んだ。  桜木はタオルで自分も汗を拭うと、瑞輝の横顔を眺めた。九歳で初めてこの道場に来た時は、もっとひょろっとしていたなと思い出す。相変わらず稽古では雑で気の抜けた奴だが、本番の神事になると別人のような集中力を見せる。人によっては神がかっていると言う者もいるが、それもうなずける。普段の間抜けぶりから考えると、本当に本番に強い奴だと思う。 「野口さんが襲われたときにおまえがいたのはただの偶然なんだろう。でも晋太郎君はおまえが心配でいろいろ注意もするんだ。おまえなら人助けできたんじゃないかって期待もしたんだ」  瑞輝は黙って桜木を見る。一瞬攻撃的な光が見えて消える。 「俺を何だと思ってんだ。いつもは何も信じねぇくせに、こういう時だけ期待してるとか言う」 「それを晋太郎君に言ったか?」  桜木は前を向き直った瑞輝を見たまま聞いた。答えはわかりきっていたが、今は愚痴を吐き出しきりたいんじゃないかと思った。  瑞輝は桜木の予想に反して口を閉ざした。 「ここでぶっちゃけて行くか?」  桜木は誘い水をしてみたが、瑞輝はムスッとしたままだ。 「いつもみたいに愚痴ればいい」桜木は重ねて言った。  瑞輝は黙って鞄のジッパーを閉じた。そして桜木を見る。 「ホントは俺がやったとしてもか?」  桜木はドキリとした。想像もしていなかったことだが、瑞輝が神事の時のような真剣な顔をするので戸惑った。一瞬だが疑ってしまう。  瑞輝はすぐに唇を緩めて笑った。 「嘘だよ、クソジジイ。騙されてやんの」  桜木は鞄を持って立ち上がる瑞輝を見た。さよーなら、と声をかけて瑞輝は歩き出す。道場の出入り口で桜木と目を合わせずに一礼し、出て行く。 「瑞輝」  桜木は声をかけた。瑞輝は顔を半分だけ桜木に見せる。 「すまん」と桜木が言うと、瑞輝はいつものようにヘラリと笑って消えた。  試されたな。桜木は小さく首を振った。
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