■ 火曜日 ■

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 青いマウンテンバイクに乗って伊吹山に向かっていると、踏切の前で日丘北高の制服が見えた。それ自体は珍しいことじゃない。この辺りに高校は三つしかなく、北と南、それから東高校がある。伊吹山の麓に近い駅を使う生徒は、北か南に通っているのがほとんどだ。東高の近くには別の線路の駅がある。東高は偏差値が極端に高くも低くもないので、地元の生徒も多い。南高は偏差値が高いので、電車で通う生徒も多い。北高は反対に偏差値が低いので、ここしか来られない生徒が電車で通ってくる。  あんたは違うだろう。瑞輝は料理部の渡瀬チョコが一人で歩いているのを見た。その少し先に野球部らしきグループがはしゃぎながら歩いて行くのも見える。  瑞輝は小柄なチョコの横に自転車をつけ、よぉと声をかけた。  彼女は数日前にマカロンの本を見ていたときと全く同じぐらい飛び上がって驚いた。瑞輝は笑った。 「なぁ、慣れてくれよ」  チョコは真顔でごめんなさいと小さく言った。 「いやいや、謝ることじゃねぇし。あのさ、頼みがあるんだよ。あのテニス部の隣の委員長に誤解されてんだよ。ストーカーじゃねぇのかって。そこんところ、説明しといてくれない?」  瑞輝はそう言いながら、彼女の持っている手提げ袋からオイルペーパーがのぞいているのを見た。 「わかった。ごめんなさい、京香も悪い子じゃないんだけど…」チョコは瑞輝の視線を追って自分の手提げ袋を見た。そして微笑んだ。「今日はナッツクッキーを作ったの。良かったら」  瑞輝はペロリと唇を舐めた。「くれんの?」  チョコはうなずく。 「サンキュ」瑞輝は自転車を肘で支えて、オイルペーパーの袋を開いてぱくりと食べる。「うめぇなぁ。俺、ちょっと体動かして来たところだから腹減ってよぉ」  チョコは黙ってうなずく。瑞輝はその横顔を見てみたが、赤くなっているかどうかは暗くてよくわからなかった。踏切前の外灯の光じゃよく見えない。どっちにしろ俺と話を弾ませる気分じゃなさそうだ。瑞輝はクッキーを一枚食べ終え、もう一枚だけクッキーを取ると、オイルペーパーの袋を返した。 「あ、全部いい」チョコは慌てて言った。 「マジ?」瑞輝は嬉しかったが、遠慮もした方がいいんじゃないかと思った。あの怖いテニス部の女が言うみたいに、彼女は俺に萎縮してくれるって言ってる可能性だってある。俺に脅迫してるつもりがなくても。 「週末にアーモンドプードルを買いにいったら、月曜日にマカロンを作ってみるつもり」  チョコはクッキーを受け取らずに言った。  瑞輝は彼女が怖がって震えてるのかと思った。声が揺れている。 「いや、いいよ。マカロンぐらい買えるし。作ってんのを見たかっただけだから」  チョコは戸惑うように瑞輝を見上げた。 「あ、じゃぁ…見る?」  瑞輝はそう言われて驚いた。どう見ても、これは誘われてんだよな。萎縮して俺が脅迫したんじゃないよな。そう心で確認してから、スケジュール帳を鞄から取り出した。 「オッケー。行く」月曜日のところに『マカロン』と書く。  チョコは少し慌てながらもうなずいた。 「えっと、先生が入部希望なら見学に来てもいいって」 「料理部に?」瑞輝は目を丸くした。「そりゃ無理だろ。女子限定だろ」 「べ、別に限定ってわけじゃ…」 「第一、俺は周りに嫌われてる」 「そんなこと…。うちの部なんて七人しかいないし、みんな別にいいって」 「そんでも、俺は包丁持ったこともねぇ」刀ならあるけど。 「それは大丈夫」 「あと、放課後が結構いろいろ詰まってて、月に一回ぐらいしか体が空かない」  チョコはうなずいた。「来れるときだけ来たらいいんじゃないかな」  瑞輝はそう言われて真剣に考えた。 「部費…材料費なんだけど、入れてくれたら、来れなかった時でも、作ったもののお裾分けも…」チョコは頑張って押してみる。 「ウソ、マジ?」  ペロリと瑞輝が舌をなめて、チョコは思わず笑ってしまった。 「うん」 「金はちょっと家と話しないとわかんねぇけど、たぶんいけると思う。じゃぁ先生に言っといてくれよ。何か他に用意するもんがあったら用意するし」 「エプロンと三角巾を持って来てくれたら一緒にできるけど」 「エプロンなんか持ってねぇけど。三角何とかって何?」 「あ、…じゃぁ貸すね」  チョコは笑顔で言った。何だか嬉しい。 「あ、悪いな、止まらせて。駅まで送る」瑞輝は前を向いて歩き出した。「料理部ってお菓子ばっか作ってんの?」  チョコは断ることもできず、瑞輝について歩いた。駅へ帰るのだから仕方ない。 「たまには料理も作ってるよ」チョコは小さな声で答えた。 「へぇ、どんな?」瑞輝は前を向いたまま聞く。 「えっと…出汁巻き卵とか」 「うわぁ、腹減って来た」  瑞輝が言って、チョコは笑った。そんな話をしながら駅までの短い距離を歩いた。 「渡瀬さんって、ホントにチョコって名前だっけ?」  駅に着いてから最後に瑞輝がした質問がそれだった。チョコは首を振り、うつむいた。 「ホントは智代子っていうの」  瑞輝はふうんとうなずいた。チョコは恥ずかしくなって黙り込んだ。 「じゃ、気をつけて」  瑞輝がふいと自転車に目を戻し、あっさりと去っていってしまった。  チョコはその後ろ姿を見守った。彼はお菓子が好きなだけ。そう心に言い聞かせる。京香にも言っておかなくちゃ。私に興味があるわけじゃないもの。ストーカーなんてあり得ない。  それにしても…。チョコは思い出し笑いをした。あの嬉しそうな顔。あんな顔、教室じゃ見た事がなかった。いつも面倒そうに授業に出ているだけだから。怖い人って噂だったけど、そうでもない。京香はすごく注意しなさいって言うけど…。  チョコはクッキーを包んでおいて良かったと思った。最初から彼にあげるつもりだったから。会えるとは思ってなかったんだけど。
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