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■ 木曜日 ■
日丘北高は校舎がロの字型に建っている。その中央に中庭があり、たまに暇な校長がフラフラしているのが見える。こういう形をしているのは、中央に監視塔を建てて刑務所みたいに見張るためだったとか、真ん中は元々墓地で、そこには建物が建てられなかったからだとか、夜になると中央はUFOの発着場になり校舎がうまくUFOを隠すんだとか、いろいろな説がある。しかし事実は大したものではない。最初は二つの校舎が平行に建っていて、増築の必要に迫られたとき、既にあった中庭と、外側のグラウンドやテニスコートを潰さないようにコの字型に三棟目が建った。さらに最後にもう一棟建てることになった際、どうせならとロの字型になったに過ぎない。そのせいで、微妙に九十度に曲がる棟のつなぎ目では、変な段差があったりする。元からロの字型だったなら必要のない段差だ。
その段差で転んだチョコを見て、瑞輝は立ち止まった。一年生ならいざ知らず、二年だ。教室移動でこの廊下を何度も通っているくせに。そう思ったのは瑞輝だけではないらしく、ゲラゲラ笑いながら通り過ぎる男子生徒もいた。
「大丈夫?」クラスの女子がフォローしている。何人かは「もう、チョコって天然なんだから」とか言って笑いながら。瑞輝は立ち止まっているのも変だなと思って、歩き出そうとした。
「あんたが押したんでしょ!」
後ろから声がした。瑞輝もその辺りにいた生徒たちも声の方を振り返った。
伊瀬谷京香が仁王立ちで瑞輝を指差している。瑞輝は眉を寄せた。
「見てたわよ。あんたがチョコを突き飛ばしたの。チョコ、そうでしょ?」
瑞輝はニヤリと笑った。伊瀬谷京香め。俺をどうしても悪者にしたいんだな。受けて立とうじゃないか。ケンカ好きな気持ちがむくむくと沸いてくる。
「あ、私も見た…かも」
ためらいがちに、チョコの横にいた別の女子が言った。
「ほーら」京香は鬼の首を取ったように胸を張る。
へへっと瑞輝は笑った。
「違う…入間君じゃ…」チョコが言うのを誰も聞いていなかった。誰よりも瑞輝が聞いていなかった。
「てめぇはよ、何かと俺に文句つけてきてよ。ケンカ売ってんのか」
やるんならやるぞ、と瑞輝が持っていた教科書を廊下に置いたところで、京香と瑞輝の間の教室のドアががらりと開いた。そして藤崎が顔を出す。
「何だ、ケンカか?」
「うるせー、途中から入ってくんな」瑞輝は藤崎に怒鳴る。
「入間ぁ、生物のレポート、提出期限過ぎてんだけどなぁ。進級できなくてもいいかぁ?」
瑞輝は眉を寄せる。そんなもんで進級できないもんなのか。
「今日出す。絶対出す」
「ちょっと、話を変えないでよね。チョコに謝りなさいよ。先生、このヒト、渡瀬さんを突き飛ばしましたぁ」京香が藤崎に近づいて来て言う。
「そんなことしてねぇし」瑞輝が言うと、京香はギロリと瑞輝を睨んだ。
「嘘つき!」
「まぁまぁ。渡瀬さん、大丈夫?」藤崎は不安そうにこちらを見ているチョコとその友人を見た。
「あ、大丈夫です…でも…あの…入間君じゃないんです」
「聞いたか?」瑞輝は京香を見て言った。
「チョコは怖がってんのよ。あんたに仕返しされると思って」京香はプイと横を向く。
チャイムが鳴る。
「この話は、また後でってことで。な、けんかするなよ」藤崎はニコリと京香を見た。
「できねぇよ、クラス違うから」瑞輝は下に置いた教科書を取ると、スタスタと歩き出す。
京香はベーッと舌を突き出し、瑞輝を睨んだ。
藤崎は二人を見送り、理科実験室に戻った。本当に最近の女の子は強くなったもんだ。
このままうやむやにできると藤崎は思っていたが、伊瀬谷京香はそれほどヤワではなかった。昼休みにチョコをランチに誘いに来たついでに、瑞輝に謝ったのかと聞いた。
「謝ることはしてねぇし」と瑞輝が答えたので、彼女は再び怒りの炎を燃やした。ついでに瑞輝が「おまえ、俺にホレてんじゃねぇの?」とからかったので激昂した。
「あんたなんかねぇ、強がってるだけのバカじゃないの。誰があんたのことなんか。この学校のみんながあんたのこと嫌ってるわよ。龍が憑いてるんでしょ、近寄らないでよね。私にもチョコにも誰にも!」
瑞輝はフンと息をついた。
「さっき見たもん。あんたがチョコの背中を押してるとこ。他にも見てる子がいるし」
「見間違いだっての」
「知ってるもん。あんた、スポーツセンターの事件で警察に連れていかれたって。今までも何回も捕まってるって聞いたもん。私の父は警察官なんだから」
瑞輝は眉を小さく寄せた。それで納得する。だからこいつは威圧的なんだな。
クラスがざわつく。瑞輝はじっと前に立っている京香を見た。
「あんた以外に人はいなかったみたいだし」京香は勝ち誇ったように言う。「それに、あんた、今までも何人も殺してるって」
ええーっと後ろがざわめく。瑞輝は食べかけの弁当箱を見て、どっちを優先すべきか考えた。濡れ衣を晴らすべきか、ばあちゃんの弁当を残さず食うべきか。
「黙ってるってことは本当なんだ」京香は瑞輝を見た。反応が薄いのがイラ立つ。
「俺じゃねぇ」瑞輝はどっちも両立させることにした。ばあちゃんお手製のシュウマイをぱくりと口に入れる。瑞輝の苦手な野菜が山盛り入っているらしいが、これは食える。後ろで「俺も聞いたことがある」とかいう噂話大会が始まっているのは無視だ。だいたい、俺が誰かを殺してたとして、さっき俺が渡瀬さんを押したかどうかは別の話だろうが。とは思うが、言わない。言ったら殺人犯ってことにされかねないからな。瑞輝は黙って白いご飯を口に運んだ。
京香は「行こ、チョコ」とドギマギしながら状況を見ていた友達を誘って、教室を出て行く。
瑞輝は自分の四方がもやもやと言いようのない空気に包まれていくのを感じた。
あいつ…。自分だけ勝手に抜けやがって。俺にどうしろと。
瑞輝は黙って弁当を食べ続けた。幸い、面と向かってすぐに何か言ってくる奴はいない。やっぱりな、という空気はどうにもしがたいが、恐れて近づかないなら絡まれるよりは楽だ。遠巻きにしておいてくれ。
人を殺したらしい、と噂されるのは心地いいものではないが、見方によっては事実だから言い訳しようがないし、刑法的には無実だから放っておけばいい。
瑞輝はクラスの空気が居づらいとは感じていた。こんなとき、山内センパイがいたらなぁとまた思った。
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