■ 木曜日 ■

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 放課後、理科室で生物のDNA抽出実験のレポートを苦労しながら書いていると、がらりとドアが開いて、担任の英語教師、栗山が入って来た。瑞輝の横のテーブルでメダカを観察していた藤崎も顔を上げた。 「失礼します、こっちに入間がいるって聞いて」と栗山は低姿勢で中に入って来た。 「殺人疑惑?」瑞輝は顔を上げて栗山を見た。 「なっ」と栗山は明らかに動揺した。  藤崎はそれを見て笑う。まだまだですよ、栗山先生。これぐらいでビビってたら、こいつとは付き合えない。 「先生、これで合ってるすか」瑞輝はレポートを藤崎に見せた。藤崎はそれを受け取り、じっと書き込まれた文字と図を見る。 「おまえにはこう見えたんなら、しょうがないだろう」  藤崎は紙をクリアファイルに挟んだ。 「何だそれ。書き直すから間違ってるとこ教えてくれよ」 「実験レポなんだから、正解はない」 「でもよ、模範解答ってのがあるだろ。俺のがすんげー違うんなら、点数が悪くなるじゃねぇか。進級できなかったら困るんだよ。俺んち、厳しいから」 「別に点数は悪くならない。ちょっと人と視線が違うってのは、発見に有利なぐらいだ」 「ホントかよ。こっそり悪い点つけるなよな」 「それよりおまえは漢字の勉強をしろ。遺伝子ってひらがなで書いてる場合か」 「うるせぇな、ど忘れだよ」 「遺伝子、繊維、濃度、沈殿ってノートに十回ずつ練習して来い」藤崎は黒板にその四つの単語を書いた。  瑞輝はムスッとしながらも、渋々ルーズリーフに写し取る。  栗山はそのやりとりを見ながら、藤崎先生はすごいなぁと思っていた。やはり剣道部だから、この剣術をやるという柄の悪い生徒にも尊敬されているのかもしれない。  瑞輝はルーズリーフを閉じると、栗山を見た。「で、先生は俺を警察に連れていこうとしてる?」 「まさか」栗山は慌てて首を振った。「入間が渡瀬を突き飛ばしたって噂を聞いたから、話を聞こうと思って。渡瀬は突き飛ばされてないって言うし、何人かは見たって言うし。おまえに聞くしかないと思って」 「ああ、あれね」藤崎は栗山に椅子を勧めた。三人はテーブルを挟んで三角形に座る。  瑞輝はノートや筆箱を鞄にしまい、教師二人を見た。外からは、吹奏楽部のさまざまなパートの音が聞こえる。体育祭に向けて練習しているらしい。野球部のバッティングの音も聞こえはじめたし、どこかのランニングの掛け声も小さく聞こえた。 「手は伸ばした」瑞輝は栗山をまっすぐ見て答えた。「でも押したんじゃない。掴もうとしたんだ。スッ転ぶのがわかったから」  栗山は目を丸くした。何もやってないという回答があるものと思っていたからだ。 「俺の反応が遅くて間に合わなかったけどな。そういう意味じゃ、俺が悪いよな。渡瀬には謝ったよ、昼に」 「んえぇ?」藤崎は瑞輝を見た。「なんで謝る。誤解のもとだろうが」 「そうだ。入間が謝ってたって言うから、本当に突き飛ばしたのかと…」栗山はクラスの生徒の何人かがそう証言するのを既に聞いていた。 「だから俺は押してないって言ったし、渡瀬も押されてないって言ったろ。でもまぁ、あの距離で掴んでやれなかったってのは、俺としては悪いなと思うわけだ。一瞬迷ったんだよ、襟掴んだらマズいかな、でも肩ってのもバランス崩すよな、腕だなと思ったらもう倒れてたわけ。迷わずグイと行ったら良かったよな、そんでブラウス破れたりしたら、俺、もっと怒られたんじゃねぇの?」 「うーん、それはそうだな」藤崎は苦笑いする。 「セクハラで退学だったな、たぶん」瑞輝はうなずいた。  藤崎はそれはないだろうと朗らかに笑う。栗山は二人を見ながら、どうしたらいいのかわからず戸惑った。 「防げるものを防げなかったら謝るのは当然だろ。それをやって文句つけられんのは納得いかねぇな」  瑞輝はそう言いながら、チラリと野口氏のことを思い出して唇を噛んだ。あの時に思った。晋太郎や桜木先生の言うことは正しい。確かに俺しかできない領域ってのがあるみたいだ。同時に俺が普通よりも至らない領域もある。そこはみんなが助けてくれてんだから、俺は俺で自分ができる範囲をカバーしないといけないんじゃないかと。それが俺に憑いた力なんだったら、無駄にするよりは役に立てないとな。 「しかしそういう説明をしても理解は得られない」  栗山は困って言った。クラスが彼を排除する空気になるのはマズい。 「理解できないんじゃなくて、俺が信用できないんだ。それだけだ」瑞輝はわずかに目を伏せた。「俺が言ってることのどこがおかしいって言うんだ。誰も俺が実際に渡瀬に触ったとこは見てないくせに、押したって思い込んでるだけだろうが。先生だってそうだろ、俺と他の奴じゃ、どっちを信じるかってだけの話で」 「入間、おまえの怒りはわかるが、あんまり栗山先生を責めないでくれ」藤崎はフォローしようと言った。栗山が顔を真っ赤にして拳を握りしめている。彼が怒っているのか恥じているのかはわからない。が、どちらにせよ爆発していい感情ではない。 「責めてない。俺を信用してくれって言ってんだ」  藤崎は瑞輝を見た。いつもの平然とした表情だ。確かに怒りは見当たらない。そういえば、こいつはあんまり怒らない奴だった。一年生の時からそうだったが、二年生になってさらに淡々としてきた。
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