■ 金曜日 ■

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 人形についてきた小さな子どもぐらいのサイズの風に従って瑞輝は町を歩いた。風はちょっと先へ行き、瑞輝がついて来ているのを確認するように止まっては、また少し先へ進んだ。  こういうのも誰も見えねぇんだな。瑞輝はポツポツ歩きながら思った。  風の導くまま、のんびりと散歩しているのは悪くなかった。 「どこ行くんだ? 家出か?」  後ろから自転車がやってきて、声がかかった。瑞輝は相手を見た。自転車の前カゴに牛乳を入れたオジさんが笑っている。瑞輝は眉を寄せた。 「こんにちは」 「暇なら寄って行かないか? 今、牛乳が切れて、ちょっとユアに店番してもらってるんだ」  瑞輝は首を振った。「今日はちょっと」 「とか言って、最近全然顔を見せないじゃないか」  最近…って、前からユアの父親がやっている喫茶店にはそれほど顔を出していた記憶はない。 「また…今度、行きます」 「本当かなぁ。割り引きチケット、渡しておこうかな」 「いや」瑞輝は苦笑いした。しかしチケットを押し付けられる。期限は今月末。 「入間君、詐欺師に絡まれてないかい? この前はどうなることかと思ったけど。甘い言葉で誘う大人には気をつけるんだよ」  瑞輝はうなずいた。「もう大丈夫です」  ユアの父親はニコリと笑う。「そうか。あ、そうだ。週末だけ、限定十名様、ティータイムにユアの作ったチーズケーキをつけるんだ。今月だけのサービスだから。ほら、明日は土曜日だし。良かったら来なよ。好きだろ? ケーキ」  瑞輝は黙ってチケットを見た。ユアの作ったケーキ? 頭がぐるぐる回り出す。オジさんが作ったんじゃなくてユアが? めっちゃ食いたいけどさ。そりゃ食いたいけど。 「じゃ、明日」  ユアの父は瑞輝の肩をポンと叩いて自転車を漕いで行ってしまった。  瑞輝はそれを見送り、大きく息をついた。気持ちを整えないと。  明日か…。山本さんが来るみたいなこと言ってたよな。ティータイムには解放されるかな。そうだといいな。小遣い残ってたよな。  風がぐるんと瑞輝の周りを巻いた。瑞輝は前を向き、待っている風を見た。  ああ、悪い、悪い。行くって。  瑞輝は少し足取りが軽くなった気がした。ユアがケーキを作るって? すげぇ。  気持ちがそぞろになっていたので、どこをどう歩いたかよく覚えていない。一時間ほど歩いた気がする。夏の星が出始め、月がクリアに見えた。前からの風が少し強くなり、瑞輝は立ち止まって周りを見た。  どこだここ。  瑞輝は後ろを振り返った。どうやら駐車場の裏を通って来たらしい。そして目の前にはため池があった。  水は濁っていて、かすかにごく小さな黒い魚の影が見える。池の周りには触ると手が切れそうな筋の通った長い草が生えていた。足元は水を含んだ泥で、滑りやすい粘土質の地層が表面に出て来ている。一応囲いがあるが、フェンスは瑞輝の腰程度の高さで、瑞輝が立っている場所は破れて子どもが出入りできるぐらいの穴が開いている。穴の開いている側の反対側には、蒲の穂が見えた。周囲は畑で、その向こうにブロック塀が見えた。人の気配はなく、パイプがむき出しになっているところを見ると、何かの工場だったらしい。ガラスが割れているので、今はもう使っていないのだろう。  ゲコゲコとカエルの泣き声がする。よく見ると、瑞輝の拳ほどのカエルが水に沈んでいるのが見えた。
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