■ 金曜日 ■

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 瑞輝はゆっくりと池の周りを歩いた。子どもサイズの風が見えなくなっていた。  小さな布切れが見えて、瑞輝はそれを拾い上げた。人形用のよだれかけだった。 「おまえのじゃないのか」  瑞輝は紙袋から人形を出した。土に汚れたタグを見ると、そこに人形と同じメーカーの名前が書いてあった。やっぱりな。とは思ったが、それにどういう意味があるのかわからない。  もう一度池を見る。水面に小さな緑色の藻が浮いている。水中はほとんど見えない。  瑞輝は空を見た。どんどん暗くなる。夜には雨が降りそうだ。  池がキラリと光り、瑞輝はUFOでも落ちてきたのかと思った。 「おい、そこで何してる?」駐車場の方から声がした。振り返ると懐中電灯がこちらに向けられている。  瑞輝からは相手が見えなかった。 「こっちに来い」  その言い方で何となくわかる。偉そうなんだよ。  瑞輝は池の方に目を戻した。さっき懐中電灯に照らされて見えたものがあった。  それを取るために、紙袋を置いてフェンスを乗り越え、池の淵に立った。足元はとても緩く、スニーカーがずぶずぶと泥に埋まって行く。池の深さがわからなかったが、手を伸ばせば届くところにピンクの棒状のものが見えた。  あと三センチ。瑞輝は指先を伸ばし、靴が滑る前に、落ちるとわかった。  落ちてみると水位は胸の辺りまでだった。ピンクの棒を掴み、池から這い上がると、駐車場にいた警察官が近くまで来ていた。  引き上げたものは、泥にまみれた小さなベビーカーだった。人形用のものだ。車輪が割れて、パイプのあちこちも欠けていた。ネジは錆び、布が千切れていた。 「何だこれは」  若い警官が言った。 「ベビーカー?」瑞輝は思った通りのことを言った。 「だからこれが何の意味があるのかって言ってるんだ」 「知らない」瑞輝は警官を見た。くしゃみが出る。髪にも服にも池の泥や藻やゴミがくっついている。  警官は眉を寄せた。どう扱おうか迷っているようだった。 「名前は?」と懐中電灯を向ける。  瑞輝は目を伏せて腕についた落ち葉を払った。「入間瑞輝。十七。家は黒岩神社」  警官は懐中電灯を自分の手元に向け、メモを取った。 「神社?」警官が聞き返す。  瑞輝はうなずいた。そしてもう一度くしゃみをした。寒くもないのに。 「風邪引いたらマズいな。交番まで来てくれる? タオルぐらいはあるから」  風邪は引いたことないんですけど。瑞輝はそう思いながらも立ち上がった。制服のシャツが泥で茶色と黒と緑っぽい色に覆われていて、学生ズボンは黒いのでよくわからないが、おそらく似たようなものであろう異臭を漂わせている。 「風呂入りたい」瑞輝が言うと、警官は申し訳なさそうに肩をすくめた。 「風呂はないなぁ」  瑞輝はそうでしょうねとうなずいた。  こんなところで何をしていたのかと聞かれたので、瑞輝は拾った人形を元のところに戻せと言われたのでそうしようと思ったのだと答えた。  途中で着替えを買いたいと店に寄った。安い下着とTシャツ、それからセールワゴンにあった派手な黄色のハーフパンツを買った。裸よりはマシだし、この池の水が染み付いた服よりもマシだ。  交番のトイレで着替えをし、タオルを借りて水道の水で体を拭いた。頭から水を浴び、タオルで拭いているところで別の年配の警官が戻って来た。こっちの方がベテランらしく、瑞輝を見るとすぐに黒岩神社の例のアレとわかったようで不審そうに「何したんだ?」と聞いた。  そこで交番の椅子に座って、簡易取り調べが始まった。人形が…という話はしたのだが、いつ拾ったのだと問われると言葉に詰まるのだった。先生に頼まれて、と言うとマズい気がした。先生の友達って人にも迷惑がかかる。たかだかプラスチックの人形で。  瑞輝が口ごもると年配の警察官は眉を寄せて怪しんだ。  パタパタと夜風が入って来ていた。瑞輝は風にはためく壁の手配書を眺めた。 「あ」瑞輝は立ち上がって、一枚の紙を見た。  警察官たちも紙を見た。行方不明者捜索依頼の紙だった。三歳ぐらいの女の子が笑顔で写真に写っていて、いなくなった日の服装が書かれていた。ピンク地に白い水玉模様のワンピース。髪をレースのリボンのついたゴムでお団子にしている。靴のメーカーと、靴下の色も書いてあった。いなくなって三年が過ぎている。 「知ってるのか?」若い方の警官が聞いた。 「知らない」瑞輝は答えた。「でも人形の持ち主かもしれない」 「え?」警察官たちは色めき立った。矢継ぎ早に繰り出される質問に答えられず、瑞輝はまた口ごもる。  だって、風がそんな感じだとか言っても誰も信じない。
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