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伊吹山の二台しか止められない駐車場に、既に三台の車が止まっていた。三台目は山道にはみ出して止まっており、黒田の車は完全に道を塞ぐように止める必要があった。
黒田は仕方なくそこに車を止め、一キロほどの山道を歩いた。
神社に近づくにつれ、トンカンギュルルルという金槌やドリルの音が聞こえた。そういえば増築しているというようなことを言っていたなと黒田は思い出した。
家庭教師に来るのは久々だった。今でも入間瑞輝のマナー講師として会談に付き添ったりはするが、学校の勉強を見てくれと言われたのは一年ぶりぐらいだ。黒田は彼に何かを教えるのは嫌だった。彼が嫌いなわけではない。彼に教えるという役目が嫌いなのだ。なぜなら、あの生徒は何も覚えないから。彼があれだけ口達者に話す事ができるのが不思議でならない。それだけの言葉を覚えられたのに、どうして方程式の基礎も覚えられないのか。怒りさえ感じる。
とはいえ。仕事だからやる。
黒田は神社手前の鳥居をくぐり、中に入った。いつも思う。神社の人間に用事があるときも手や口を清めるべきなのだろうか。黒田はしかしやっておくに越した事はないと思うので、必ず手を洗い、口を濯ぐ。
そして社務所の裏にある入間家の玄関に立つ。この家には呼び出しベルというものがない。
「すみません、黒田といいますが」
中に声をかけると、はーいといつもの女性の声がする。入間瑞輝がばあちゃんと呼ぶ人物だ。実の祖母というわけではない。ここの宮司の母親で、料理がうまい年配の女性だ。
「黒田さん、ご苦労様です。瑞輝は帰って来てるんですけど、その奥で山本さんという方と何かのお稽古を付けていただいているんです。呼んできましょうか」
政子は割烹着姿で言った。
「いえ、では私が行ってきます。山本さんのことは私も存じてますので」
黒田が言うと、政子は笑顔でうなずいた。「ではよろしくお願いいたします。もし長くかかるようでしたら、遠慮なくこちらでお待ちくださいね」
「ありがとうございます」
黒田は礼をして玄関の引き戸を閉めた。
入間家の人間は彼女にしろ、瑞輝の義兄の宮司にしろ、その妻となった女性にしろ誰もが礼儀正しい。いつ会っても気持ちがいい人たちばかりだ。入間瑞輝だけがちゃらんぽらんなのだ。この家に育ってどうして、と黒田は首をひねる。よくあれで神事など務まるものだ。
言われた方角に行くと、瑞輝と山本がほぼ互角に戦っていた。そう、戦っているのだろうと黒田は思う。しかし圧倒的に瑞輝の方が疲労していた。服の汚れも彼の方がずっとやられていたのだろうということを想像させる。
「ストップ」山本が言って、瑞輝はパシッと地面に叩き落とされた。「家庭教師が来たぞ」
瑞輝は立ち上がって黒田を振り返った。
「頼んでない」
「うるさい」山本は瑞輝の頭をまた殴った。「これはニコイチなんだよ。俺が体のコントロールを教える。黒田が脳みそのコントロールを教える。いいか、どっちもやる」
瑞輝は眉を寄せて黒田を見た。それから山本を見る。
「先生とやり合いながら、勉強もすんの?」と瑞輝は頭の上にクエスチョンマークをポンポンと飛び出させる。
山本はまた瑞輝の頭を叩いた。黒田はそんなに叩かないでくれと思う。彼を殴るたびに、彼の中に辛うじて留まっていた知識が抜け落ちて行く気がする。
「バカか、おまえは。別でやるんだよ。俺と実戦しながら計算できるほど、おまえは賢いのか?え?」
山本は瑞輝の首を絞める。「すみませんでした」と瑞輝がギブアップする。
黒田はちょっと嫉妬を感じた。この二人、まだ一、二度しか会ってないはずなのに仲が良さそうだ。自分は彼と一年以上関わってきたのに、それほど彼と親しくなった気がしない。彼は自分の授業から何とか逃げ出そうとしているし、渋々話を聞いているという感じもする。決して楽しそうな顔は見た事がない。
「疲れて頭がまわんねぇよ。逆のほうがいいんじゃないのか?」
瑞輝が言った。それは黒田も思う。
「適度に体を動かした方が、アドレナリンが出ていいんだよ」
山本はバンと瑞輝の背中を叩いた。
黒田は首をひねった。
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