■ 水曜日 2 ■

2/9
前へ
/165ページ
次へ
 避けたらいけなかったんだろうか。瑞輝は状況を冷静に思い出そうとして眉間にしわを寄せた。  まず、晴れた朝の気持ちいいイチョウ並木だ。まだイチョウは緑色で、たまにちょっと早とちりして黄色っぽくなってるのがあったりもして、雌株には緑の実がすっかり鈴なりになっていて。そういうのを見ながら歩いていたら、前から学生服をかなり崩して着こなしている生徒が二人乗った自転車が坂を下って来た。自転車の色は赤だった。前カゴがないタイプで、ハンドルがカマキリみたいにグイと曲がっているヤツ。瑞輝はそれが好きでもないし格好いいとも思えないが、たまにそれを好む者がいることも知っている。人の好みはそれぞれだ。運転している生徒のシャツは黄色だった。プラスチックのバットも黄色だった。バットを持っていた生徒の靴は、バスケットシューズだったような気がするが、バスケット部かどうかは知らない。運転していた生徒は髪が金色だった。瑞輝も金色だから人のことは言えないが、あれは地毛ではない気がする。根元が黒かったから。  ガチャリとドアが開いて、瑞輝は思考を止めた。 「ホントにおまえは疫病神だよな」  デリカシーのない体育教師、安達がファイルを机に置いて椅子に乱暴に座る。  体育教官室、というところだった。授業が始まっている今は、臨時取調室と化している。 「避けたら転ぶだろうが」安達は苦笑いで言った。「あいつらの運動神経がそれほどいいと思うか?」  そりゃ思いません。思いませんけど。 「バットで殴られてた方が良かったすか」瑞輝はムスッとして安達を見た。自転車事故の後に、周りの生徒に突き倒され、殴られた痕が顔に残っている。逃げようとしたから、と殴った生徒は言っていたが、安達はそれを信用していない。入間瑞輝が逃げるなんてことは、おそらく地球が割れてもあり得ない。 「殴られたら良かったとは言ってないだろう。うまい避け方はないのか、ああいう場合。おまえ、プロなんだから対処しろよ」  瑞輝は同じ事を晋太郎と金剛寺でも言われるのかと思うと気が重くなった。それでつい「はい」と答える。  安達はため息をついた。肯定するな。困った奴だ。 「おまえは悪くない。誰が見ても、向こうが悪い」  安達はコツコツとペンで机を叩いて言った。瑞輝は顔を伏せたままだ。 「おい、聞いてるか?」  一つため息をついてから、瑞輝は顔を上げた。「聞いてます。停学になる?」 「聞いてないだろ。悪くないって言ってるんだ」  安達は理解していない顔の瑞輝に言った。 「でも、向こうが怪我をして、俺が怪我をしてないから、たぶん苦情が来る」 「そういう問題じゃない。向こうはおまえを殴りに来て、勝手に怪我したんだ」 「俺が避けなかったら怪我しなかったって話だろ?」 「避けなくても、あいつら倒れてただろ。バカだから。物理の先生が力学を教えてやるって言ってたよ。理解できるかどうかわからないけどな」 「俺もわかんねぇ」瑞輝は困惑した顔をした。 「こういうのを、何て言うか知ってるか?」安達はじっと瑞輝を見た。唇が切れていて、額にも擦り傷がある。興奮した生徒に殴られて、やり返したかというと、何もしなかったという。防戦一方。柔道部や剣道部の猛者をバッタバッタと倒すという伝説は、簡単に否定されてしまった。 「こういうのって?」 「悪い事をしにいって、自分で滑って怪我するみたいなことを、昔から自業自得って言うんだよ。自縄自縛とか、因果応報ともいう」 「俺が避けて怪我させたから、おまえが悪いって殴られたってのも一緒だな?」 「それは濡れ衣っていう」安達は困惑して言った。「国語の授業じゃないぞ」 「停学はマズいんだよ」 「だから大丈夫だって」安達は笑った。「おまえ、本当に俺の話を聞いてるか?」  瑞輝はうなずくが、不安そうな顔は変わらない。 「そういうのになったら、学校には行かなくていいって言われてるんだ。俺、高校は卒業したいんだよ」 「そりゃいい心がけだ。とにかく停学も退学もない。安心しろ」 「じゃ、なんで授業に出してもらえないんだ?」 「みんなの気持ちが冷めるのを待ってるんだ。時間が経てば、みんな冷静になる。おまえが悪くないことぐらい誰にだってわかる。隔離してるんじゃない。保護してるんだ」  瑞輝は大きく息をついた。安達も一緒に息をつき、ファイルから紙を取り出した。 「自主学習用のプリントだ。それやって、後で担当の先生に出しておけ」  瑞輝はプリントを見た。数学の問題が並んでいる。こんなの一人で解けると思ってるのか。イジメだ。
/165ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加