■ 水曜日 2 ■

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 地面が一瞬下がった気がして、瑞輝は目を開いた。古いエレベータで急に下がると足元がすくわれるようなあの感覚が背中に走る。起きて辺りを見るが、そこは平和な高校の中庭だった。チャイムが鳴っている。そうか、夢が俺を起こしてくれたんだな。  仕方なく体を起こし、芝生の上に立つ。そして後ろの桜を見た。相変わらずの枝ぶりだ。  瑞輝は桜の幹に手を当て、じっと梢を見る。なぁ、どうしてほしいんだろう。日本語、しゃべってくんないかな。今だけ。一言だけでいいから。  桜がそんな願いを聞いてくれるわけもなく、はるか上の雲だけが流れて行く。  瑞輝は息をついて諦め、自分の教室に戻った。  机の上に何か置いてある。瑞輝は靴跡のついたオイルペーパーの袋と、机の上の粉を見た。ジャムみたいなものも袋と机にべったりついている。瑞輝は渡瀬チョコの方に目を向けた。彼女は前の席なので背中しか見えない。  現国の教師がやってきて授業が始まる。瑞輝は粉々になったマカロンの残骸を集め、オイルペーパーに戻した。机についたジャムは指ですくって舐めた。甘くてうまかった。何があったのかわからないが、昼休みの間にマカロンが俺の机に用意され、誰かが故意か不注意で袋を踏んでしまい、マカロンが壊れ、机に戻されたというのが瑞輝に想像できる精一杯だった。渡瀬チョコがそれを見たのかどうか、あるいは彼女自身がからかわれたかどうかは瑞輝にはわからない。でも机の上にあった残骸は一目瞭然だったから、自分の作ったものが壊れた状態にあるのだけは見ただろう。それはショックな映像だっただろうし、悲しかっただろうと思う。  瑞輝は次の休み時間に、迷わず渡瀬チョコのところへ行った。チョコは瑞輝が来るのを見ると、自分から立ち上がった。「入間君、ごめんね」彼女はいつものように小さな声で言った。 「え、何が?」瑞輝は面食らって聞き返した。自分が謝ろうと思っていたのに。 「マカロン、お昼休みに渡そうと思ってたら、いなかったから机に入れたの。でも落ちちゃったみたいで、下に」 「ああ…」瑞輝はうなずいた。「いなくてごめん」 「いいの、ちゃんと手渡せば良かったね」  小さくチョコは笑った。気にしないで、また作るから、と。  瑞輝は戸惑いつつうなずいた。本人がそう言ってくれると気が楽だ。 「落ちたんじゃなく、落としたんだろ、アレは」  瑞輝の横に城見が来て言った。瑞輝は彼を見た。 「おまえの教科書にでも落書きしようとしたんじゃないか? 何人かがかき回してたぞ」 「ラオウ、ちょっと出てくれ」  瑞輝は顎で廊下を示した。城見は瑞輝にそんな名前で呼ばれると思っていなかったので驚いた。 「あれ、そういう名前じゃなかった?」瑞輝は首をひねる。 「名前じゃねぇよ」城見は言いながらも廊下へ出た。どうやらあのチビの女子には聞かれたくないようだ。 「俺のマカロンを踏んだのは、事故じゃないんだな?」  瑞輝は声を落として真剣に聞く。城見は眉を寄せた。「マカロン? あの袋のことか? ああ、そうだ、事故じゃない。何だこりゃとか言いながら踏んでた」 「それ、渡瀬さんは見てた?」  渡瀬はサンづけかよ。城見はそう思いながらも首をひねった。 「さぁどうだったかな。いたような気もするし、いなかったような気も…」 「カイブンショと同じメンツか」 「そうだな、同じ野球部の奴らだな」 「三人」 「そうだ。ホントに知ってたんだな。なんで放っておく? 闇討ちしてやれよ。俺、協力するけど?」  城見はちょっとワクワクして言った。 「闇討ち?」瑞輝は首を振った。「そんな卑怯な事はできない。俺に嫌がらせするのは別にいいけど、人の気持ちを踏みにじるのは許せない」 「じゃぁ、決闘か?」城見はますますワクワクする。 「決闘は向こうが望まない限りできない」瑞輝は腕組みをして考えた。 「何だそのマイルール。決闘なんて自分から申し込むもんだろうが」城見は焚き付けたくて言った。  しかし瑞輝は首を振る。
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