■ 木曜日 2 ■

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■ 木曜日 2 ■

 学校で自転車の修理代のことを聞いてみようと思ったが、伊瀬谷京香は瑞輝に怒りを表しており、聞ける雰囲気ではなかった。渡瀬チョコも目を合わせてくれない。俺が何をしたんだと瑞輝は戸惑った。いや、しかし、そもそも彼女が俺に親しくなることが不自然だったんだ。瑞輝はそう思った。自然に戻ったと言える。  とはいえ、自転車代は早いところ返却しなければいけない。  放課後、メタルブルーの自転車で警察署へ行った。そんなにでかい警察署じゃないから、受付で聞いたらすぐにわかるだろうと思った。受付は意外と親切だった。伊瀬谷、で良かった。もし田中だったらもっとたくさんいたに違いない。  地域安全課というところだった。瑞輝はその場で待たされ、伊瀬谷氏が上の階から下りて来るのを待った。  伊瀬谷氏は瑞輝を見てかすかに眉を寄せた。 「また絡まれたのか?」と彼は瑞輝の擦り傷を見て言った。 「あ、これは学校で」瑞輝は言葉を探した。自転車に乗ったバット男に殴られそうになって避けたらそいつがこけて、それで俺のせいってことになって殴られた、というのも面倒だなと思った。「まぁ、ちょっと」と一言にギュッと凝縮して誤摩化した。  伊瀬谷氏はそれを聞いて、難しい顔でうなずいた。「こっちに」  瑞輝は二階の自動販売機の横にあるベンチに伊瀬谷と座った。何か飲むかと聞かれたが断った。 「自転車の修理代を払おうと思って」  瑞輝はいかつい顔の警察官を見た。 「ああ」伊瀬谷はそう言ってから、瑞輝を見た。「いらない。金額も忘れた」 「賄賂になるんじゃねぇ?」瑞輝は考えながら言った。  伊瀬谷は笑った。「賄賂にはならない。そんなことのために来たのか?」 「大事なことだろ?」 「そうだな」伊瀬谷はそう言ってから少し宙を見て考えた。「他に困ってることは?」 「え?」瑞輝は目を丸くした。「別に何も」 「学校のことは娘にいろいろ聞いている。君が人を殺したとかいうデマが書かれた紙が撒かれたとか」 「あ、そっか。そこはつながってんだな。じゃバレるのか」  瑞輝は自分の唇の傷を触った。自転車バット事件もバレてるのかもしれない。 「娘は気にしてた。娘がやったと君に思われてるんじゃないかと」 「思ってないって言った」  伊瀬谷は小さく笑った。「でも、その引き金を引いたのが自分かもしれないと気にしていた。何だか不注意な発言をしてしまったようだ。詳しくは聞いてないが、悪い事をしたのなら謝っておけと言っておいた」 「別に伊瀬谷さんのせいじゃない。それより…今は俺がよくわかんないけど怒られてる」 「娘に?」 「そう、伊瀬谷さんと友達の渡瀬さんて人に」 「理由が知りたい、と」 「いや…別に。前から伊瀬谷さんには嫌われてたし。俺、嫌われんの慣れてるし。本当に修理代、いいのかな」  伊瀬谷はうなずいた。「いらない。そうか、また嫌われてるのか。高校生ぐらいの男女間にはいろいろあるからな。精神年齢の差もあるし」 「確かに俺は精神年齢は低いって言われるよ」  ふふと伊瀬谷は含み笑いをした。「男はみんなそうだ」  瑞輝は意外そうに伊瀬谷を見た。同意されるとは思わなかった。 「自転車は伊瀬谷さんのせいじゃないのに。なんか、出してもらうと悪いな」 「いや、鑑みるべきだった。君は元々差別されぎみなんだから、取り調べなんて受けると、事情を知らない人間は誤解することも予想できた。それを放り出したのは警察のミスだ。きちんと家に送り届けるべきだった。未成年だし、君は事件の被告じゃない。善意で関わってしまった第三者だ」 「パトカーで送られたら、よけい誤解されんじゃねぇの?」瑞輝は笑った。 「それでも怪我も自転車の故障もなかったはずだ」 「何とかだったら、何とかだった、てのはさ、ただの予想だからさ。パトカーで送られても、やっぱり俺は別の日に殴られてたかもしれないんだし。そういうこと気にしてるときりがない」  伊瀬谷は肩をすくめる瑞輝を見た。思わず笑みを浮かべそうになる。 「だから嫌われるのも慣れたのか?」  瑞輝は小さく首をかしげた。 「昔はなんで嫌われてるかわかったら、それを直したらいいと思ってたけど、違うってのもわかってきた。直すのもそりゃ大事だけど、そればっかりやってると自分が何なのかわからなくなる。たまには無視しないと」  伊瀬谷はじっと瑞輝を見た。 「たまに」瑞輝は強調した。「いつもじゃない」  伊瀬谷はうなずいた。別にたまにでもいつもでも構わない。 「野口さんて、どうなりました?」  遠慮気味に瑞輝が言って、伊勢谷は無用な責任を感じているのだなと察した。 「怪我はたいしたことなかったみたいだが、なぜか意識が戻らない。何か別の病気が隠れているかもしれないから検査しているそうだ」 「そうか…」瑞輝は肩を落とす。 「現場に別の人間の靴跡があったから、それは調べてる。でもそれは争いの場には近づいてない。運が良ければ目撃者がいたかもしれないって感じだな」  瑞輝はほとんど興味がないようにうなずいた。 「君も何か思い出したら教えてくれ」  伊勢谷が言うと、瑞輝は生返事をするようにうなずく。 「俺…帰ります。お仕事中、スミマセンでした」  瑞輝は立ち上がった。  伊瀬谷も立ち上がり、ポケットからカードケースを出した。そして名刺を出す。 「もし困った事があったり、相談したくなったら連絡をしなさい」  瑞輝は名刺をじっと見つめ、それから目を上げた。 「学校のことでも?」  伊瀬谷はうなずいた。「何でも」  そう言われて瑞輝は小さく笑顔を見せた。「すげぇ、なんかスペシャルカードみたいだ」 「解決する、とは限らない。話を聞いて、無駄なアドバイスをするだけかもしれない」 「わかってる」  瑞輝は名刺をポケットに大切にしまった。  じゃ、と少しは明るい顔で出て行った瑞輝を見送り、伊瀬谷は娘はあの子の何が気に入らないのだろうと少しだけ考えた。
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