■ 木曜日 2 ■

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「センセーは他に仕事とかしてねぇの?」  瑞輝が息を切らせながら聞いて、山本はムッとした。「これが仕事だ」 「へぇ」瑞輝はゲホゲホと咳き込む。無理に喋らなくていいだろうがと思うが、山本は黙って見ておく。勝手にすりゃいい。 「金、もらってんだ?」咳が落ち着いてから瑞輝はまた言った。 「当たり前だ。俺にも生活ってのがある。そうやって時間を稼ごうとしてるんだろ?」  山本はそう言って瑞輝の服を掴む。瑞輝はそれを辛うじてくぐり抜け、後ろに一歩下がる。  やるじゃねぇか。反応が良くなって来た。  思ったよりも瑞輝は上達が早かった。言葉で説明してもわからないから、体で感じてもらうしかないと思った山本の狙いは正しかったようだ。瑞輝はコントロール力がないのではない。人間相手に練習を積んでいないだけで、経験すればうまくやれるはずだった。実際、神事ではどういった出来事が起こっても、冷静に対処できる底力を持っている。対人間となると遠慮が先立って、まともに動けなくなるだけのことだ。  初日はかなり臆病だった瑞輝も、翌日には加減を探りはじめ、今日はかなりギリギリまで迫って来ている。山本も油断していると怪我をしそうだ。  瑞輝とのゲームはいつも一時間が限界だった。  互角に保ちながら相手の力を引きだすのは、山本にとっても骨の折れる仕事だった。しかし必要な手順だとも思った。相手は怖がっているのであり、恐れる必要がないということを理解させるのは何に対しての恐怖だとしても困難なものだ。  黒田の仕事も大変だろうと山本は実感していた。瑞輝は言ってみれば情報過多なのであり、気が散るのだ。瑞輝が人と話しているときに視線が通過するのもそのせいだ。違う場所を見ている。違う音を聞いていたりする。彼は彼なりに一生懸命に人の話を聞いている。ちょっとした会話さえ、彼には集中力のいる作業なのだろう。それを常に何時間も保て、というのはちょっとキツいだろうと山本も思う。  ヘロヘロになって地面に倒れている瑞輝にペットボトルの水をやる。瑞輝はうまそうに水を飲む。 「今日は黒田センセは来ないんだ?」  水を半分ほど一気に飲むと、瑞輝は山本を見た。 「来ない。何か別件があるみたいで。良かったな」  瑞輝は山本の笑みには答えず、ぼんやりと前を見ている。  山本は無理に瑞輝の意識を自分の方に向けようとはしなかった。こうやって解放しているのが奴には自然なんだろうなと思う。ガチャガチャ混じっているのが瑞輝にはノーマルなのだ。 「学校で」瑞輝がつぶやくように言って山本は瑞輝を見た。「山月記ってのやってるんだけど」 「ああ、虎になるやつな」 「うん」瑞輝はため息をつくように相づちを打った。  そのまましばらく瑞輝は黙っていた。山本はどれぐらい待つべきかと考えた。黒田はどのぐらい待つのだろう。伊藤は待たないだろう。あいつは短気だからすぐ殴るに違いない。だから心持ち、伊藤よりは気の長いところを見せようと、山本はじっと待った。 「虎になった人のことを、みんなかわいそうだと思ってる」瑞輝は沈黙を破って言った。 「かわいそうっていうか、惨めとか気の毒にとかだよな」待った甲斐があったと山本は思った。しかし確かにこれは黒田に聞いた方が良さそうだ。山本はそれほど内容を覚えているわけではない。 「そうじゃないと思うって言ったら、先生に怒られた」  山本は笑った。「怒られたのか」 「違うって。人間として生きる上での大事なことを教えてくれてるんだってさ。わかんねぇ。だから黒田先生に教えてもらおうと思ったのに」  山本は笑い続けた。黒田は何と答えるのだろう。 「だって一日に何時間かだけ人間になるんなら、そのときに詩でも何でも作ればいいじゃないか。有名になるのが目的じゃなくて、詩を作りたいんだろう?」 「虎になったら詩を作れない、それが悲しいんじゃないのか?」 「虎になったら、詩を作りたいと思わないよ」 「それもそうだな」山本は苦笑いした。「おまえ、学校の成績はメチャクチャ悪いんだろう?」 「悪い」瑞輝はやっと顔をしかめた。会話に応じた表情をしたのは、これが初めてだった。 「言ってることが、小学生みたいだ」山本は笑いながら言った。  瑞輝は山本を見た。「国語の先生もそう言ってた。もう喋るな、授業の邪魔だって。虎になって幸せに暮らしました、ってなるかもしれないのに」 「そうだな」 「俺は自分が龍になると思ってた」 「え?」山本は話が展開したので驚いた。
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